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正法眼蔵 礼拝得髄 10

妙信尼について道元禅師の説示は続きます。

雑用係の人に「廨院主の妙信尼さんが、お前さんたちの話はなってないということを言っていたよ」と告げられ、十七人の僧侶は、自分たちがまだ論議が不十分であるということを恥ずかしく思って、威儀を正して、袈裟をかけ、香を焚いて、五体投地の礼をして「どうか教えてください」と言ってお願いした。そこで廨院主の妙信尼が「お前さんたち、もっと近くへいらっしゃい」と言った。そして十七人の僧侶が近くへ進み、まだ歩いている途中で廨院主の妙信尼が言った。「風が動くのでもない、旗が動くのでもない。心が動くのでもない」と。十七人の僧侶は、なる程そうかと納得した。

そこで妙信尼に対して礼拝をして、師匠と弟子との礼儀作法を行った。そしてそのまま、仰山禅師の寺院には登らないで、そのまま西の故郷へ帰っていった。この様に妙信尼が十七人の僧侶に対して教えた事態は、菩薩(仏になる前の修行者)の境地の人々がとうてい達し得るところではない。釈尊以来代々の真実を得られた方々によってのみ伝えられてきたところの教えであり行いである。この様な事態から考えるならば、現在においても、住職や住職補佐が空席である場合には、尼僧であっても釈尊の教えをしっかりとつかんでいるのであれば、住職や住職補佐に充てるということをすべきである。

※西嶋先生の解説
十七人の僧侶が論議していた話は「旗が風で動いているのは、風が動いているのか、旗が動いているのか、あるいはそれを見ている人の心が動いているのか」と言う有名な論議です。ところが、妙信尼がなぜこう言う教え方をしたかと言うと、十七人の僧侶がノコノコと歩いているその瞬間、それは単に十七人の僧侶が歩いていると言う事だけではない。妙信尼が「近くへ来なさい」と言ったから歩いてきた。その事は、畳がなければそこを歩く事はできない。そうすると、家があり、寺院の建物があり、畳があり、僧侶がいて妙信尼が「近くへ来い」と言ったから歩いて行ったという、その瞬間の一切の動きと言うものが現実。

だから、妙信尼が「近くへ来い」と言ったのは、その現実というものを十七人の僧侶に行動させ、この行動の途中においてお前達がノコノコと歩いているが、それは何が動いており、何が止まっておるという理屈ではない。「近づいて来い」と言って十七人の僧侶が足をそろえて歩いている事態そのものが現実。我々の住んでいる世界と言うのはそういう現実そのもの。仏道とはそれを捉えるというのが狙い。だからその点では、風が動いているんだ、旗が動いているんだ、心が動いているんだと言う論議自体では、仏道そのものと全く縁がない。妙信尼はその事を教えたわけ。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仮に出かける時に、電車の中で本を読もうとする、そうするとこの本も読みたい、こっちの本も読みたいと、どっちの本を持って行こうか迷っているうちに時間が迫ってきちゃいまして…。何かを買う場合なんかでも、これを買おうかな、買うのよそうかな、あるいは勤め先で、言いずらいことでも言わなきゃまずいかな、いや、我慢して言わない方がいいんじゃないかと言う様な判断で、考えれば考えるほどわからなくなってしまいますが、そういう場合に覚悟を決めるようなものはどういった場合でしょうかね。

先生
そのことは、例えば「正法眼蔵弁道話」の巻の中に、「直下に第二人なし」と言う言葉があるんですが、「直下に第二人なし」と言うのは、現在の瞬間において自分が二人いないということ。だから判断に迷うというのは、自分の中に二人いるということ。「直下に第二人なし」これは自分自身がたった一人であるということ。当たり前のこっちゃないか、というふうに理屈の上では考えられるけれども、我々は普段よく自分の中に判断する人間が二人おって、どっちがいいかよくわからん、迷ってしまうということがあるわけです。

そのことはどういうことかと言うと自律神経のバランスと関係がある。交感神経と副交感神経とがバランスしていないと、こっちがいいのかな、こっちがいいのかなというふうに迷ってしまう。坐禅と言うのは、交感神経と副交感神経とを均等させることだから、坐禅をして交感神経と副交感神経が一致しておれば、いま何をしなきゃならんかということが直観的につかめる。どっちにしようかということの迷いがない。だからそういう点では、判断を的確にするためには頭の中で考えてもいい判断は出てこない。体の調子を整える、心のバランスを整える、自律神経をバランスさせるということにならざるを得ないと思う。だから、朝、坐禅をしたならば、それでもう全部を坐禅に任せて、坐禅が教えてくれる通りに一日を送るということが仏道。

質問
今のお話に関連して、あれにしようかこれにしようか迷う、それで時間をかけて選択して、それでいいんじゃないんですか。結局それを悩まなければ、つまらないなんて思わなければ、それでいいんじゃないかと思いますがね。そんなに世の中、パッパッといかんと思うがなあ。(笑)

先生
そういう点では、もちろん、判断までに時間がかかるということがあります。直ぐに判断がつかんということはあります。そしてまた時間をかけて一つの結論に行くということが非常に尊い、現実の生活の中で必要だということはもちろんあります。だからその点では、迷うということ自体をいつも避けるということではなしに、迷わざるを得ないということが我々の日常生活にはいくらもある。ただ、その場合に基準と言うものが外れていると、悩みに悩み、考えた結果、おかしな結論になる場合がいくらでもあるということ。そうするとおかしな結論に到達しないためには、基準と言うものをどうとるかと言う問題がある。そういうことになろうかと思います。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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