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正法眼蔵 礼拝得髄 9

道元禅師が、また女性の僧侶の例を挙げます。

妙信尼は仰山慧寂禅師の弟子である。仰山禅師がある時、寺院の庶務を司る廨院主がたまたまいなくなったので、それを選任しようとする時に、かつて寺院の重要な職をやった人たちに質問した。「だれが廨院主として適任か」と。そこで聞かれた僧侶の間では色々と問答の行き来はあったが、ついに仰山禅師が言われた。「妙信尼は女性ではあるが、自主性を堅持した人物の心意気がある。まさに廨院主として、その統率をさせるというだけの力量がある」と。

この仰山慧寂禅師の意見に対して多くの僧侶は納得した。そして、妙信尼は廨院主として寺院の重要な庶務をやることになった。その時、仰山禅師の門下にはのたくさんの優れた弟子があったけれども、女性の妙信尼が廨院主になった事を決して恨みに思うということはなかった。実際のところ廨院主と言う役は、軽い役ではないので、その選を命ぜられた人間としては、自分自身を大切にして、一所懸命その務めに励むべきであったであろう。

その廨院主の職にあって寺院の庶務を司っていた時に、蜀の国から十七人の僧侶が来た。その僧侶たちは団体を組んで師匠を訪ね、仏道を勉強して様々の地方を旅していたが、ある時、仰山禅師の寺に行って教えを受けようとし、夕暮れに廨院に到着し宿泊した。そして夜、僧侶十七名は休憩中の雑談に大鑑慧能禅師の「風と幡」との相関関係に関する説話(二人の僧が、暮夜、旗が風に動くのを聞いて、旗が動くのか、風が動くのかということで論議した)を取り上げた。

ところが十七人の僧侶が言っているいずれの論議の内容も解答としては十分ではない。妙信尼が壁の外で十七人の僧侶の議論を聞ていて「十七頭の盲のロバがあれこれとくだらん議論しているけれども、旅をしてずいぶん費用を使ったであろうに勿体ないことだ。釈尊の説かれた宇宙秩序と言うものを夢にさえ見たことがなさそうだ」と言われた。その時たまたま雑用係の人が妙信尼の言われた言葉を聞いていて、十七人の僧侶に「廨院主の妙信尼さんが、お前さんたちの話はなってないと言っていた」と告げた。



           ―西嶋先生の話―

「仏」と言うのは、仏道の説いているところの真実と一体になった人。「仏以上の人」と言うのは、自分が真実を得たと言う事も忘れてしまった人。 それは日常生活に徹してコツコツと生きている人と言う意味です。 また自分が偉いと言う事も忘れてしまった人と言う意味です。 こう言う話は非常に浮世離れした話で、日常生活あるいは社会生活にはおそらく関係あるまいと普通は考えられているけれども、我々の社会生活というのは、みんな宇宙の中での出来事。 だからその原則と言うのはそう違わない。

人が寄り集まって、いろんなグル-プをつくって、そのグル-プの中ではいろんな仕来りがあり、いろんな規則があるけれども、その外側には必ずそれより広い世界がある。 一番広い世界と言えば宇宙と言うもの。 宇宙の原則によって、一切のものが支配されているわけです。 だから、究極のものを把んでから日常生活を見直すならば、日常生活の実態というものが非常によく見えてくると言う面があるわけです。 ところが、狭い範囲の考え方だけで一所懸命にやっていると、傍の状況と言うものがよくわからない。 広い世間から見ると案外大した事ではないものを、大切に考えて無我夢中でやっている社会の様子と言うのはどこにでも沢山あるわけです。 だからそういう点では、狭い世界で一所懸命になる事も大切かもしれないが、時には大きな立場から、実態がどうなっているかと言う事を見る必要があるわけです。

自分が偉い偉いと思っている状況の時は、まだそう大した事はない。 自分は本当に偉いのか、偉くないのか、よくわからなくなってしまった、人からも偉いと言われるほど特に目立って見えないと言う状況の中に仏道がある。 だから仏道というのは、かなりすれた人への教えですよね。 純情な人は、なかなか仏道を信じようとしない。 ただ、世の中の荒波にもまれて泥だらけになった経験のある人は、「いやあ、釈尊の言っている事は本当かもしれない」と言う事に気がつく訳です。 純情な人は、釈尊の教えがあんまりピンとこないんですよ、正直言うと。執着のない方がいいという様な事がよくわからないで、いや、執着してとにかく欲をかいて金を儲けたほうがいいじゃないか、というふうに普通は考えるわけでね。 世間の考えは、大体そう言う事です。

組んずほぐれつで一所懸命やってみても、最後になって何のためにやったのか、よくわからないという時がある。 そんな時には、もうちょっと広い、高い立場から問題を考え直してみないと、一所懸命やったけど何のためにやったかよくわからんなと言う事になりがちです。 釈尊はそういう点で、広い立場、高い立場から本当のものを眺めて、そして自分が何をやっているのか、よく把んでおいた方が自分の人生を意味あらしめる最大の原因になると言われたと見ていいと思います。

仏道というのは一筋縄でいく教えではない。 かなり「すれた人」でないと興味を持たない。 これは本当ですよ。 だから仏道に興味を持っている人は、大体かなり苦労して「すれた人」が多い。 すんなり生きてきた場合には、中々こういうひねくれた考え方を勉強してみようと言う気にならない。 どうもそういうところがあると思います。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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