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正法眼蔵 礼拝得髄 8

灌渓志閑禅師は末山尼の寺で三年を過ごし、後に大きな寺院の住職となった時、衆僧に示して言う。

「自分は父とも仰ぐ臨済禅師のところで、柄杓の半分を得ることが出来た。また母とも慕う末山尼のところで、柄杓の半分を得ることが出来た。この両方の柄杓半分ずつを一つにして、一つの柄杓で水を飲んだが、そのまま満足し切って何の不満もない。自分は仏道の理解において欠ける事がなく今日に至っている。」

この志閑禅師の言葉を聞いて、昔の事跡を追慕してみるに、末山尼は高安大愚禅師の優れた弟子で、その教えの中心を保持する力量があったので、志閑禅師の母親に相当する役割を果たした。また臨済禅師は黄檗希運禅師の正しい後継者で精進努力の力量があったため、志閑禅師の父親に相当する役割を果たした。志閑禅師が末山尼に礼儀を尽くして教えを求めた事は、仏道を学ぶ上における心意気の優れた先例であり、年を取ってから仏道を学ぶ人々が当然やらなければならないところであり、様々の仏道修行における障害を乗り越えて、目的に到達する好例だということが出来る。

※西嶋先生の解説  
この様に志閑禅師が、末山尼と言う女性の僧侶に師事して仏道修行をし、仏道修行の目的を達したという例を挙げておられるわけ。なぜこういう例を挙げられたかと言うと、道元禅師の思想、あるいは仏教思想としては、年をとっていようと、若かろうと、女性であろうと、男性であろうと、仏道をはっきりと把握している者に対しては、礼拝をし、教えを請うべきだと言う思想があるからであります。



         ―西嶋先生の話―

最近しきりに感ずることであるけれども、もし仏教に関連して坐禅が盛んになれば、仏教と言う教えは決して難しい教えではないということを非常に感ずる。なぜそうかと言うと、坐禅を毎日やっておると、悩みとか惑いとかと言うものがなくなるんではなくて、出てこない。出てこないということ。どこを見ても迷いと言うものも見つからないし、惑いと言うものも、苦しみと言うふうなものも見つからなくなってしまう。いくら見つけようとしてもどこにもないと言う状態になるということが実情。だからそうすると坐禅さえやっておればややこしい問題は何も起こらないということが言える。

ただ坐禅と言うのは、毎日やることは中々くせがつきにくい。だからそのくせつけるまでが問題であるけれども、くせがついてしまえばきわめて簡単な問題。そういうくせがついてしまえば一切の問題が消えてしまうということが実情であろう。そういうふうに何も悩みも起こらないということが人間の普通の状態。ところが中々人間はそうはいかない。先日も女遊びで外国へ何回も往復しておった、金を使い過ぎて、しまいには人を殺さなきゃ間に合わなかったと言うふうな人が出てきた。女遊びのために飛行機に乗って何回も外国に行くなんて言うのは相当の働き者。なかなか普通の人はそういう一所懸命努力するということはやらない。

もっとのんびりして、家で悠々と、ご飯を食べたり、テレビを見たりと言うのが普通の人。そこへいくと、そういう働き者は、非常に苦しい思いもしたし、まあ、いいと思っていたのが必ずしもいい思いではなくて、苦しいばかりで、結局行くところまで行ってしまったということ。本人は何をやっていたのか恐らくわからなかっただろう。ただ一所懸命バタバタ、バタバタこういうものだと思ってやっているうちにとんでもない所へ行ってしまったということに過ぎないんだろうと思う。

そうすると、本来の状態に戻るということは割合大事な事で、我々誰しもが、自分が何をやっているかということが中々わからない、人間というのは、たいてい自分のやっている事はまともというふうに思っている。自分のやっている事がまともで、自分と違う事をやっているのは「あれはおかしい」ということで、みんなが思っている。各人のやっていることがそれぞれ正しいのであれば、世の中問題はないんだけれども、あっちの人のやっている事と、こっちの人がやっていることが違うから、世の中は問題が出てくる。だからそうすると、共通の誰でもが頼ることの出来る基準と言うものがかなり大切になってくる。誰でも頼ることのできる基準と言うのが坐禅ということの中にあるわけ。だから自分の基準を求めようと思ったら、何も考えずに、足を組んで、手を組んで、背骨を伸ばしてジ-ツとしておる。そうすると本来の自分と言うものが出てくる。それを基準にして生きていけば、人生、何の問題も起こらないということになる。

最近そういうことをしきりに感ずる。だから、仏教、仏教と言って非常に難しい様に考えておるけれども、坐禅と言うものに頼って生きるならば、仏教と言うのは決して難しい教えではない。極めて簡単。分かるもわからないもない。直接自分の体で触れることが出来る。そういうふうに考えざるを得ない。


読んでいただきありがとうございます。


 
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コメント
482:こんにちは by 鬼藤千春の小説・短歌 on 2015/12/17 at 07:16:23 (コメント編集)

はじめまして!あるブログを拝見していたら、このブログに出会いました。私もブログを開設しています。「鬼藤千春の小説・短歌」で検索できます。一度訪問してみて下さい。よろしくお願い致します。

483:Re: こんにちは by 幽村芳春 on 2015/12/17 at 10:44:42

鬼藤千春さん、コメントありがとうございます。

早速ブログに訪問して短歌読ませていただきました。これからも訪問させていただきまます。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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