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正法眼蔵 礼拝得髄 7

中国の灌渓志閑禅師は臨済禅師の門下において長年の優れた修行を重ねた人である。ある時、臨済禅師は志閑禅師が尋ねて来たので、その臨済の寺に留まるように志閑禅師の身体をつかまえて止めた。志閑禅師は「わかりました、わかりました」と。臨済禅師は「おまえさんが、しばらくこの寺にいる事を許す」と言葉を述べた。この事があってから、志閑禅師は臨斉禅師の弟子になった。

その後、灌渓志閑禅師は臨済禅師の寺院を去って、末山尼の支配している寺院に行った。そこで未山尼が志閑禅師に質問した。

末山尼:何処からやってきたのか。

志閑禅師:道の入り口からやってきました。

未山尼:お前はなぜ、道の入り口などと言う意識をすて、もっと素直に入って来ないのか。
 
志閑禅師は言葉につまってしまい、どう答えていいのかわからなかった。そこで志閑禅師は、末山尼の力量が非常に優れていると知ったので、礼拝して師匠と弟子との礼儀作法を行った。

その後で今度は志閑禅師が末山尼に質問した。

志閑禅師:師匠の末山尼とは一体どういう人でしょうか

末山尼:他人に対して滅多に自分の最高のものは見せない

志閑禅師:この山奥深く入っている末山尼とは一体どういう人でしょうか、あるいは山奥深く入って仏道修行に専念している人は一体どういう人でしょうか。

末山尼:それは男であるとか、女であるからと言う事は関係ない。

志閑禅師:あなたは女性の姿でずっといて、少しも変わらないのですか

末山尼:自分は化け物ではないから、何を変えるものがあるものか。自分は尼僧であり、末山尼であり、それで十分だ。

志閑禅師はその言葉を聞いて、末山尼の意図を理解したので礼拝した。そこでその末山尼の寺にとどまって弟子となり修行する事にした。寺院には田畑があり、そこで穀物や野菜を作って僧侶が食べるための菜園が有り、その監督係をして三年間を過ごした。



             ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
スポ-ツを坐禅に置き換えて、それはそれで結構だと思うんですが、ゲ-ムと言うのがございますね。これは一体どういうふうに考えればいいんでしょうか。

先生
ゲ-ムと言うのは勝ち負けですわな、勝ち負けと言うのは、例えば馬を歩かせるときに、ニンジンを鼻にぶら下げて歩かせるということをやったとすれば、ゲ-ムと言うのはそういうニンジンのようなもの、勝敗と言うのはそういうニンジンの役をしておる。勝敗に引かれて一所懸命練習する、一所懸命試合をするということがあるわけです。ただ一番尊いのは、一所懸命にやるということ自体だと。だからスポ-ツの価値と言うのは、一所懸命やるということに価値があって、勝ち負けということがそう大きな要素をなしていない。ただ、スポ-ツをやる以上、勝ち負けを問題にしないとやる気が起きないし、練習も一所懸命やらないし、試合がなければつまらんし、ということでもあるんで、そういう点では馬を歩かせるときのニンジンの役目としてゲ-ムと言うものがあるんだと、そういう理解の仕方ですね

質問
そうであると思いますね。

先生
だから馬を走らせるのにニンジンを使うということも、あって差し支えないという程度の問題だと思います。

質問
例えばテニスのゲ-ムのような場合、相手のミステ-クと言いますか、弱点を狙いますね、届かないところに球を打ち、すべてそんなものですけど、これは根性は許せませんな。

先生
まあ、そういうことはあろうかと思いますけど、所詮は遊びですからね。だから、勝つという目的で色々と技を競い合うということ、これはそういうル-ルでやっているということからすれば、とくにどうこうというふうな価値判断をしなくてもいい問題だというふうに思っています。

質問
いえの孫などは、運動会で五等を取ったと喜んでいますが、大人たちが一等、二等じゃなきゃ面白くないんですね。他の連中は躓いて転んでくれりゃいいと思う。どうも仏道精神には程遠いと思えてしょうがないんです。

先生
まあ、そういう問題はあろうかと思うけれども、それと同時に、社会と言うのがいかにそういう問題で構成され、運営されているかということ、これは無視できないと思う。たとえば最近、いわゆる位階勲等と言うのがわりあいまた復活してきましたけれど、藍綬褒章をもらった、黄綬褒章をもらったと言う様な事を各人が喜ぶ。賞勲局に出入りして、「今度は頼む、今度は頼む」と言う様な事で、実に凄まじい運動をしている。

大の大人が何でそんな事に興味を持つのか(笑)というふうに感ずるわけだけれども、しかしご当人はやっぱり、真剣そのもので頑張っているわけ。それが一つの社会を動かす原動力になっているわけで、我々はそういう娑婆世界に住んでいるわけだから、そうするとそういうものに全部目をつぶって「あれはけしからん」と言う様なわけにはいかない。あれも現実なわけ。だから、そういう現実の中でどう対処していくかというところにやっぱり工夫があるということ。一概に、ああいうものは子供っぽいから相手にしないというわけにもいかないということじゃないかと思います。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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