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正法眼蔵 礼拝得髄 6

かつて唐の時代の趙州真際大師は、本当のことを知りたいという気持ちを起こして、諸国歴訪の旅に出発する際に言った。

たとえ七歳の子供であっても、その子供が仏道に関して自分よりも優れているならば、自分はその子供に頭を下げてその教えを受けよう。また、たとえ百歳の老人であろうとも、その老人が仏道に関して自分より劣っているならば、自分はその百歳の老人を教えよう。

道元禅師の注釈です。
七歳の子供に対して教えを問う際には、たとえ老齢者であろうとも、子供を礼拝すべきであるとは、これは極めて珍しくかつ偉大な心意気であり、古仏(永遠の価値を身につけたところの真実を得た人)の心構えである。また釈尊の説かれた宇宙秩序を身につけた尼僧が大きな寺院の住職となった場合、宇宙秩序を求め仏道を学ぼうとしている男子僧が、その尼僧のいる寺院に行って、尼僧を礼拝して説法を聞くことは、仏教を学ぶ上での古くからの優れた仕来たりである。それはたとえば、喉の渇いた人たちが、飲み物を手に入れる時と同じようにきわめて切実であって、性別や年齢などを問題にしている余裕はない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は以前に、スポ-ツや何かをして楽しいと思えるような状態のときには自律神経のバランスが取れているということをおっしゃいましたが、坐禅をしている時には自律神経のバランスが取れているわけですね。そうすると、坐禅をしている時が一番いい状態と言うか、自分でやっぱり心身ともにすっきりしたという意識があるということなんですかね。

先生
そう、坐禅をしている時の状態と言うのは、 すでにそういう状態になっているとみていい。そのことはどういうことかと言うと例えば自分が何か問題に躓いて、悩んでおる時の状態と、坐禅をしておる時の状態 とを考えたらいいと思う。その点では、何か悩みがあるという様な時には、姿勢もかなり背骨が曲がっているというふうな事で、体の状態がおかしくなっていると同時に、悩みが何時までも抜けない。ただヒョッと気を取り直して坐禅と言う形で背骨を伸ばしてみると、何で悩んでいたのかわからないような心の変化がある。

だからそういう点では、坐禅をして長年 の修行を積めばそうなるということではなしに、坐禅をすればすぐそういう境地に入っていく。もちろん、坐禅をして少しづついろんなことを考えていたのが、だんだん時間をかけて、10分、15分経つうちに消えていくというふうな問題はあるけれども、いずれにしても坐禅をするということによって悩みから逃れることが出来る、悩みと無関係な境地に入ることが出来ると、そういうふうに理解してもいいと思う。

質問
スポ-ツをやれば楽しい、坐禅もやれば楽しい、ということが出来れば、より・・・・・。

先生
そういうことです。だから坐禅と言うのは救いですよ。悩みから抜け出す救いだという面が確かにある。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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