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正法眼蔵 礼拝得髄 5

道元禅師の主張は続きます。

釈尊の説かれた真実の教えと言うものを聞いたことのない愚かな人々が考えるには、「自分は偉大な僧侶である。自分より年の若い人が釈尊の教えの真実を得たとしても、自分は年少者の教えを聞くわけにはいかない」とか、「自分は長年に亘って仏道修行をしてきた。たとえ真実を得た人であっても、年配になってから仏道を勉強した人に対して礼拝するわけにはいかない」ということをいう。

また、「自分は禅師号、大師号に名を連ねているから、師号を得ていない者を礼拝するわけにはいかない」とか、「自分は法務司という僧侶を監督する立場にある者であるから、他の僧侶がたとえ真実を得ていても、役職についていない僧侶を礼拝するわけにいかん」とか、「自分は僧侶の地位としては僧正司という高い役職についているのであるから、真実を得た人がいても、それが俗世間の男女であるならば、礼拝するわけにはいかん」ということをいう。

また、「自分は菩薩の地位に位するものである。たとえ釈尊の説かれた真実を得られた人であっても、尼僧に対して礼拝するわけにはいかない」とか、「自分は皇帝の子孫であるから、たとえ真実を得た人であっても家臣や大臣程度の家柄のものを礼拝するわけにはいかない」とかと言う。

この様な愚かな人々は、真実と言うものは問題にせずに、それ以外の価値と言うものに心を取られて、本当の意味で仏道と言うものを勉強しようという気にならない状態であるから、「妙法蓮華経」に語られている、国王である父親の国を離れ、他国の道路をうろつき歩いている息子と同じように、釈尊の教えと言うものを直接見たり聞いたりしない人と言わざるを得ない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
小さい子供はいろんなのを経験してだんだん大きくなっていきますね。お寺の小僧さんに五つぐらいの小さい子が入りますね。そういう人は経験が偏頗ですね。

先生
うん。だから私は、出家と言うのは、もう十分大きくなって、自分の意志で僧侶になりたいと思わなけりゃなるべきではないと思います。自分の家がお寺だったから子供の時から無理に僧侶にさせられたという形では、中々うまくいかないんじゃないか。もちろん小さくても僧侶になりたいと決心をして僧侶になった人、これはいいと思いますがね、ただ単に寺を継がなきゃならんからということで、無理に僧侶にすることは、やっぱり仏道が衰える原因になると思います。やっぱり本人が、「出家したい」と言う気持ちを起こして出家するんでなければ結果はよくないと。

今日、仏道が非常に衰えておるのは、世襲で、寺院の息子さんは必ず僧侶にならなくてはならんと言うしきたりがあるもんですから、そうすると本人がやる気がなくても僧侶になるわけですね。これは非常に具合が悪いと思うんですよ。仏道が衰える一つの原因としてはこれがかなり大きな原因をなしているんじゃないかと、そういうふうに考えますがね。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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