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正法眼蔵 礼拝得髄 3

道元禅師の主張は続きます。

真心と言うものは、自分以外からやって来るものでもなければ、自分の内部から湧き出てくるものでもない。真心とは、何とかして仏道を知りたいという気持ちを激しく持ち、自分自身はどうなっても構わないと言う気持ち持つことである。それは俗世の様々の権力欲、金銭欲と言うものを超越して、真実とは何かということを目標にして生きることである。ほんの僅かでも自分自身を大事にして、法(宇宙秩序)よりも自分自身の方が大切ということになると、釈尊の教えが自分自身のものにならないし、真実と言うものが自分のものになるということはない。

この釈尊の説かれた法(宇宙の秩序)を尊重する心意気と言うものはその例が決して少なくない。本来他人から教えられるという必要のあるものではないけれども、その一つ、二つの例をここで取り上げてみよう。いわゆる釈尊の説かれた宇宙の秩序を大切にするということは、たとい屋外の柱であろうと、燈籠であろうと、真実を得られた方であろうと、狼の類であろうと、男女であろうと、外見の違いは問題にせず、仮にも釈尊の説かれた偉大な宇宙の秩序を保持し、達磨大師の教えを保持している人がいるならば、それに対して我々は、自分の体、自分の心を投げ出して跪き無量の長い時間にわたって仕える態度を取るのである。

人間としての体や心を得るということは、決して少ないことではない。人間の姿をしている人は、世界にはまさに稲や麻や竹や葦の様に多数存在する。しかし釈尊の説かれた法(宇宙の秩序)があるということに気がつき、そのことを勉強しようという気持ちになって、実際に勉強する人の数は非常に少ない。



          ―西嶋先生の話―

仏道修行は何のためにやるかということでありますが、一つの表現を取れば、自分自身を勉強するということ。なぜ自分自身を勉強するかと言うと、自分自身と言うものをつかんだ生活と、自分自身をつかまない生活とでは違うということ。自分自身をつかんでいる状態であると、人生を楽しむことが出来る。自分と言うものを中心にして、いろいろな現象が起きた時に、それを正しく判断して対処することが出来る。

ところが自分自身と言うものをつかんでいないと、外界の色んな事が起きるとすぐ慌てる。どうしたらいいか分からない。で、いろいろと心配してもしょうがない、まあ適当に誤魔化しておけと言ういうふうな事でも、一生を終わることが出来る。終わることはできるけれども、本当に人生を楽しんだかどうかということになると疑問。何となく外界の出来事に追いまくられて、あれよ、あれよと言っている間に、我々に割り当てられた数十年の歳月と言うものはすぐ経ってしまう。

そうすると我々はいろいろ本を読んだり、あるいは芝居を見たり、山遊びに行ったりと、いろいろな楽しみがあるわけだけれども、どういう楽しみをする場合でも、自分自身をはっきりつかんでいる状態と、そうでない状態とでは、楽しみ方が違う。人がやるから俺もやる。あの人がこうやったから自分もやる、というふうな事で、人のやる事、あるいは外界の事を基準にして次から次へと色んなことを追っかけまわすというのが、我々の生活の中ではよくありがちな状態。

ただ自分自身と言うものがはっきりつかまれておると、いろんなことが出てきても「俺はそれは嫌だ」とか「俺はそれをやらない」とか「よし、それは張り切ってやろう」とかと言う風な自主的な判断が出来るわけだ。人生にはこの主体的な判断があるかないかということはかなり大事な事です。何となくみんなの後をついてワッショイ、ワッショイ生きました。そのうちに割り当て時間が過ぎました「はい、さようなら」ということでは「はい、さようなら」と言う時にちょっとさびしいと思う。
                       つづく--


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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