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正法眼蔵 礼拝得髄 2

道元禅師の主張は続きます。

すでに指導者となるべき師匠と出会って以降は、様々の煩わしい環境と言うものを一時棚上げして、少しのの時間も無駄に過ごすことなく、一所懸命に努力して坐禅すべきである。意識的にも修行し、無意識のうちにも修行し、半意識的にも修行すべきである。つまり、髪についた火を払いのけなければという緊急の事態を迎えたと同じような気持ちで修行をしなければならないし、かつて釈尊が踵を上げて爪先立って歩くという修行されたと同じ様に努力すべきである。この様に修行をするならば、仏道修行者を誹謗しようとする悪魔の類から邪魔されることがない。

太祖慧可大師の様に、腕を切り落とすような激しさで仏道の真実を得たと伝えられている先輩も、決してお前自身と別人ではなく、自分自身の肉体、自分自身の心を超越して真実と一体になった師匠は、ほかならぬ自分自身である。仏道の真実を得るか得ないかということ、あるいは釈尊の説かれた宇宙の秩序を自分のものにするか自分のものにしないかということは、例外なしに、真心であるかどうか、あるいは信仰心が強いか弱いかということにかかっている。しかしその真心と言うものは、自分以外からやって来るものでもなければ、自分の内部から湧き出てくるものでもない。

※西嶋先生解説
「太祖慧可大師は学者で、在家の頃は本を沢山読んでおった。ただいくら本を読んでもどうも人生の真実と言うものがわからん、ということで非常に悩んでおった。ところがある時、自分の住んでいるところからそう遠くないところに少林寺と言う寺があって、そこにインドから来た達磨大師が生活しておられるということを聞いて、難儀をしながらやっと達磨大師のおられる少林寺に着いて「自分をどうか弟子にしてほしい」と言ったところが、達磨大師が「仏道と言うのは難しいから、そう簡単に弟子にするわけにはいかない」と言うことで、最初は相手にされなかった。
そこで太祖慧可大師は自分の決心がいかに激しいかということを示すつもりで、腕を切ってさし出した。その腕を切って差し出したことで、達磨大師もさすがに太祖慧可大師が中途半端な決心ではないということを知られて、そこで弟子にしたというふうに伝えられている」



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
だいぶ前の事ですが、「修行において駄弁をせず」と言う様な意味のことをお話された記憶があるんですが、どういうことでしょうか。

先生
それは「正法眼蔵」の中に、「ひそかに修す菩提心のしたしきなり」と言う言葉があるんです。だから、俺は坐禅をやっている、俺は坐禅をやっているということを人に宣伝して歩かなくても、こっそり自分でやっている時の方が本当の坐禅のよさがわかってくるということです。だから、別に人にしゃべる事がいけないと言っているんではなくて、むしろ人が知っていようと知っていまいと、とにかく自分自身の問題として坐禅をやることの方が坐禅の本当の味わいがよくわかると、そういうことを言われているわけですね、それだけの意味です。

質問
密やかに修することが菩提心の・・・。

先生
そう。だから人が見ているところで、「やってます、やってます」と言う様な事で坐禅をしている状態よりも、誰も知られないところで、こっそり自分の部屋でやっているという時の方が、しみじみした坐禅の良さがよくわかると、そういう意味ですね。

※私の独り言。
坐禅会にも行ったことがありますが、私は自分の部屋で密やかに坐るのが好きです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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