トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 礼拝得髄 1

「礼拝得髄」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「礼拝得髄」というのは、得髄を礼拝するということ。得髄というのは、真髄を得たということ。真髄を得た人の事を得髄と言う。得髄を礼拝するというのは、真実を得た人であるならば、それが赤ん坊であろうと、女性であろうと、動物であろうと、とにかく真実を得たものならば何でも礼拝するということを述べられた。だから人間の偉さと言うものも、単に人間だから偉いのではない、単に男だから偉いのではない、単に女だから偉いのではない、真実を得ているか得ていないかが人間の値打ちの分かれ目、と言う考え方を持たれて、もし真実を得た人がいるならば、それが赤ん坊であろうと、動物であろうと、真実を得ているという事だけのために礼拝するということを説かれた巻。

「礼拝得髄」の巻、本文に入ります。
最高で均衡の取れた正しい教えと言うものを実際に実践するにあたっては、正しい指導をする師匠に出会うことは非常に難しい。その指導者となるべき師匠と言うものは、男だから女だからと言う男女の区別で決まるものではない。たとえ女性であっても、真実を得ているならば立派な師匠だし、たとえ男性であっても、真実を得ていなければ正しい指導をする師匠としての資格はない。正しい指導をする師匠とは大丈夫(自分自身の意思できちっと行動のとれる人)である。

※西嶋先生解説
「我々が坐禅をしておる時に何を狙っておるかと言えば、自律神経のバランスを狙っておるということ。この前の話の時も出たけれども、自律神経がバランスしておるということは、自主的に行動がとれるということ。自分と言うものをしっかりつかんで、その自分を基準にして、やるべき事とやるべきでない事がキチッとわかって、やるべき事はやる、やるべきでない事はやらないという、行動が自由自在にとれる人が大丈夫。だから大丈夫と言うのは、その点では仏道修行の目標というふうにい言ってもいい。今日でも日常生活で「大丈夫か」「大丈夫だ」というふうな言葉になっておるけれども、本来は仏教から出た言葉、本来の意味と言うのは、自主的に日常生活をキチッとやれる人が大丈夫

本当に真実を得た人と言うのは、恁麼(言葉であれこれと表現する事の出来ない)人である。本当に真実を得た人と言うのは形容のしようがない。「偉い」と言ってみても、偉いだけかと言うともっと他の要素がある。「真面目」と言ってみても、真面目だけかと言うと、もっと他の要素がある。「少しとぼけている」けれども、また他の要素がある。こうだああだと決めつける事の出来ないほど曰く言い難い人である。いつの時代に生きたかと言う事が基準ではない。それは、まさに時代を超越した人柄である。変幻自在でしかも凄みがあり、よく人々を導く事の出来る能力のある人である。

以上述べた様な特徴が真実を得た人の特徴である。人々を指導し人々に様々な利益を与える事の出来る人であろう。この世の中を支配している原因・結果の関係がハッキリと見えた人のことであろう。すなわちそれは、あなた方であり、私であるし、そしてまた、あの人であろう。

※西嶋先生解説
「一人一人の人が得髄である。仏と言うものはどこか遠い世界にいて、とても我々が行き着く事はできないと言う存在ではない。我々の日常生活の中で仏として生きる事は自由自在に出来る。そのために坐禅と言うものがあると見て差し支えない」


読んでいただきありがとうございます。


  
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

FC2カウンタ-