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正法眼蔵 洗浄 8

まだ「洗浄」の巻は続くのですが、これから先は寺院生活での用の足し方の作法等が述べられています。管理人は寺院で暮らす僧侶ではないのでこれ以降は省略します。

           「正法眼蔵洗浄」
           1239年旧暦10月23日
           観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。
          
※西嶋先生解説
「洗浄の巻」全文で、この様に道元禅師は、仏教の教え、釈尊の教えと言うものは日常生活をどうやるかと言う事に他ならないということを強く感じておられたから、手洗いの事についても事細かにその仕来たりと言うものを説明されたわけであります。ところがこういう手洗いの使い方というのを事細かに説明した宗教書と言うのは、世界でも例が少ないと思う。経典の中には手洗いの事が出てくるわけで、ここの「洗浄」の巻にも引用されておるわけだけれども、経典以外の書物で手洗いをどうするかということを書かれた文章としては、世界広しと言えどもこの文章ぐらいしかないのではないかと思う。そのことが道元禅師が、あるいは仏教が、日常生活をどういうふうに考えておったか、日常生活と宗教との関係をどういうふうに考えておられたかということの非常に大きな参考になる。

きれいごとで、人間が中々できそうもないようなことをとうとうと述べて、こうしなきゃならん、ああしなきゃならんと言っているようなのが宗教ではない。実際の日常生活をどう送るかということ、ご飯の食べ方をどうするか、手洗いに行っての動作をどうするか、あるいは寝た時はどうするか、というふうな日常生活の送り方そのものが仏道だ、というのが仏教思想の非常に大切な問題。そういう日常生活をどう送るかということが、治安の問題などとも密接な関係がある。気持ちが落ち着いておるか、落ち着いていないか、そういう事と我々の社会がどんな状態になっているかという事と、あるいは世界がどういう状態になっていくかという事、戦争が始まるか、始まらないかという事と密接に関連している。

そういう点では、宗教と言うものが単に高遠な理想だけを述べておるのでは宗教としての役割を果たせない。むしろ我々の日常生活をどう送っていくかというふうな手近な問題がキチッと整理されるところに、初めて宗教と言うものが意味を持ってくる。現実の上において力を持ってくるという事にならざるを得ない。


読んでいただきありがとうございます。


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コメント
480:真ん中 by 正田寿男 on 2015/11/30 at 23:37:29

真ん中を生きる
真ん中に精神の状態を置く
このなんと力強い日々の歩みか
どんな状況にあっても動揺しない
ビクともしない真ん中を持つ

なんか少しわかってきたように思います。
日常をかけがえのない、大事な二度とない瞬間を生きているならば、誰に対しても優しくおだやかに接しないではいられないだろう。

481:Re: 真ん中 by 幽村芳春 on 2015/12/01 at 12:47:49

正田さん、コメントありがとうございます。

坐禅をするのが習慣になると、坐禅をするのが普通になってしまい坐禅をしていなかった頃を思い返すと、いま自分が変わっていくのがよくわかります。坐禅の効用は坐禅を実際にしなければわかりません、毎日時間を大切にして、穏やかに、不満なく暮らせていることは坐禅を始める前には想像もできませんでした。
真ん中を生きる。真ん中に精神の状態を置く。このなんと力強い日々の歩みか。どんな状況にあっても動揺しない。ビクともしない真ん中を持つ。
本当にその通りですね。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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