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正法眼蔵 洗浄 5

華厳経の浄行品に言う。

大小の手洗いの用を足す際には、人々が汚れを取り除いて、貪(むさぼり)や、瞋(怒り)や、痴(愚かさ)という人間の弱点と言うものを持たない様にと願うべきである。また手洗いの用を終わって水で手を洗う際には、人々が最高の教えに向い、社会の規範を乗り越えた真実の教えを得ることを願うべきである。また水によって汚れを取り除いたならば、人々が落ち着いた気持ちで何事にも耐え忍ぶ力を具え、完全に汚れから離脱する事を願うべきである。

道元禅師の注釈です。
水は必ずしも、本来きれいと決まったわけではないし、本来汚れていると決まったわけでもない。我々の肉体も、本来きれいと決まったわけではないし、本来汚れていると決まったわけでもない。そしてこの世の一切の存在もまた、初めからきれいだとか、初めから汚れていると決まったわけのものではない。水自身が自分はきれいだとか汚いとかという判断を持っているわけではない。我々の体が自分自身を反省してこの体はきれいだとか、この体は汚いとかという判断の出来る様なものではない。この世にある一切のものが、本来きれいなものだとか、本来汚いものだとかと断定できるものではない。

釈尊の教えはまさにこの様な説き方をされている。体を汚いと考え、水をきれいと考えて、水というきれいなもので、体と言う汚いものを洗うという考え方ではない。体を洗うことは人間としての本来のあり方に他ならない。それは仏法そのもの、自然の法則そのものである。この様な形で本来のあり方として体を洗うということが洗浄ということの意味である。体を洗うということは、自分自身の体と釈尊の体と、自分自身の心と釈尊の心とが、全く一体になった状態で正しく伝承されたのである。

我々が体を洗うということは、釈尊が釈尊ご自身の体を洗ったと全く同じことをやるわけである。体を洗うということは、釈尊の説かれた言葉の一端をごく身近に自分自身の体験として見聞きするのである。それは釈尊ご自身の輝かしい光を自分自身の輝かしい光として保持することである。体を洗うということが、釈尊の持っておられるあらゆる性質を自分自身のものとして具体化することである。体を洗い浄めるという修行を実際に行うまさにその瞬間においては、釈尊が行われた永遠の価値を持った本来の行動を欠けることなく具えているのである。この様に体を洗うことによって、実際に仏道修行をする、体、心が、本来の姿でこの現実の世界に立ち現われるのである。

※西嶋先生解説
道元禅師は、単に体を洗うことについて実に意味の深い宗教的な価値を見出されておった。こういう点では我々の日常生活における、歯ブラシであるとか、石鹸であるとか、香料であるとか、洗剤であるとか、浴剤であるとか、そういうものと我々の日常生活、宗教生活とが密接に関連しているということ、これは考えてみる必要がある。文明が発達するにしたがって、少しずつそういうものも優れたものが出来始めて、いいもの、いいものと、何千年、何百年にわたって進化してきて今日の文明があるわけだ。だからそういうものも明らかな文明の一種。

今後も少しずつ進んでいくと思う。そういうふうなものが進んでいくことが人間生活の向上であり、文化の向上であるということに他ならない。それがまた今日の文明国だけでなしに、東南アジアの様々の国々にもずっと流れていくことによって、地球上の文明は向上していく。インドとかアフリカでもそういうものを使いだすというところまで行けば、世界全体がかなり大きな文明の状態に達したということになる。だからそういう点では、文明と言うもの、文化と言うものは、単に心の問題、精神だけの問題ではなしに、また肉体的な、あるいは物質的なものもその背景に密着して存在するということを考えざるを得ない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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