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正法眼蔵 洗浄 2

「洗浄」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

我々の卑近な日常生活を取ってみても、戦前と戦後では日本の、あるいは都市における手洗いの清潔か、不潔かと言う点では雲泥の差がある。年齢の若い方はそういう風なものを実際に見たことがないかも知らんけれども、我々の子供の頃は日本の家庭の手洗いと言うのは実に不潔なものだった、だいたい大きな穴が開いておって、下をのぞくとあまりきれいでないものが見える。匂いも決してよくない。子供心にもどうしてこういう不潔な事しかできないんだろうと思ったけれども、それはどこの家庭でも当たり前の事で、それで時期的なそれをまた大きな柄杓を持って汲みに来てくれる商売があった。そういう形で手洗いと言うものは使われておった、その当時の日本国民にとってはそれしかできなかった。

ところが終戦後、幸運な事には水洗の手洗いが発達して、今日では非常に清潔な思いをしている。そういう点では、戦前と戦後を比べて、手洗いに関する限りでは日本文明は非常に進歩した。長足の進歩をした。少なくとも、我々の生活が非常に快適になったということは言える。文化とはそういうもの。

手洗い(トイレ)がきれいだと言う事も、国民の文化程度を推察する上においては、かなり大きな意味を持っておるのではないか。そういうふうなことも感じられるわけだ。そういう意味からして、この「洗浄」の巻は、道元禅師が仏道というものが日常生活、特に体を清潔にすると言う事と密接な関係があるいうことを説かれた巻で、非常にそういう点では大事な巻というふうに考えて差し支えないと思う。

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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