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正法眼蔵 洗浄 1

「洗浄」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「洗浄」の巻は、主としてどういうことが書いてあるかと言うと、手や足の爪を切れ、ということも書いてあると同時に、手洗いに行っての作法が書いてある。普通、宗教と言うと非常に高貴なもので、日常生活(ご飯を食べたり、手洗いに行ったり)ということは宗教と無関係と言う考え方が多い。ただ仏道と言うのは、人間が何をするかということを中心にした思想であるから、ご飯を食べる事も大切、着物を着る事も大切、それから体を洗う事も大切と言う風な事で、「洗浄の巻」と言うものがある。

普通、宗教と言うものを抽象的に考えると、様々な理論的な問題というのは大いに取り上げるけれども、手洗いに行ってどういうふうに手を洗うかというふうな問題については、あまり論議するということが少ない。だから「正法眼蔵」に関係した本でも、「現成公案」とか「仏性」とか「有時」であるとか、そういうふうな哲学的な議論の盛んな巻は色々と取り上げられるけれども、「洗浄」の巻と言うのはあまり取り上げられるということがない。

しかし道元禅師の思想と言うのは、こういう「洗浄」の巻の様なきわめて卑近な日常生活を取り上げたところに、仏教はどういう思想かということを理解する非常に大事な鍵が隠されている。だから95巻から成る「正法眼蔵」の中でも、この巻は哲学的だから論議する、この巻は卑近なことが書いてあるから飛ばすということをやっておると、「正法眼蔵」全体の意味がわからなくなってしまう。少なくとも捉え方が一方的になるという恐れがある。だからそういう点では、こういう「洗浄」の巻というふうなきわめて卑近な日常生活を取り上げた巻も「正法眼蔵」の中で非常に大切な巻というふうに考えて間違いない。

風呂に入るということは今日我々の重要な生活の一部になっている。現在日本の国民の年齢は長寿では世界一になりつつあると言われている。そのことは食物があまり肉類に片寄っていないということも原因としてあるんだろうと思うけれども、入浴と言う習慣、これも日本人の長寿と関係があるのではないかと思われます。日本の様に湿気の多い土地では、風呂に入って汗をかくということ、あるいは血液の循環を良くするということが健康に大きな意味があると考えられる。

ところが、日本の国で入浴と言う習慣が神代時代からあったかと言うと、そうではないらしい。神代には、日本の国民というのは、だいたい水で体を洗うということしか習慣として持っていなかった。だから今日でも「禊」と言う言葉がある。水でそそぐ、水で体を洗うということ。今日でも、滝に打たれたり、川に飛び込んで体を洗ったりすることを「禊」と言うけれども、神代にはそういう水で体を洗うという習慣しかなかった。

それで、お湯を沸かして体を洗うようになったのは、仏教と一緒に大陸の文明が入ってきてから初めてそういう習慣を勉強するようになった。だから奈良朝時代、あるいはそれより少し前の寺院で初めて浴室と言うものを建てて、お湯を沸かして人々がたくさん風呂に入るようになって、初めて日本国民は風呂と言う習慣を大陸から学んだということが歴史的な事実としてある。そうすると、風呂に入るという風な事もきわめて大切な文化の一部、文明の一部。文明、文明と言ってみても、汽車が走るとか、飛行機が飛ぶとか、これも勿論文明の一種であるけれども、顔を洗うとか、手を洗うとか、風呂に入るとかと言う風な事も文明の非常に大切な一部。
                つづく--


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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