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正法眼蔵 即心是仏 13

慧忠禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

無限の時間、すなわち永遠において真実を知りたいという気持を起こし、それを実践する人も即心是仏(今日ただいまの心こそ真実である)に他ならない。また現在の一瞬における心の中で、真実を得たいという気持を起こして、それを実践する人も即心是仏に他ならない。また握り拳の半分ぐらいの大きさの狭い世界の中で真実を得たいと言う気持ちを起こし、実践する人もまさに「即心是仏」である。

しかしながら、長い期間に亘って修行をし、真実を得た人になろうと努力する事は、即心是仏の実体とは異なると主張するならば、その人々は即心是仏と言う事の実体をまだ見た事がないのであり、またそれを知らないのであり、またそれを学んだ事がないのである。 即心是仏と言う思想を説明してくれる正しい師匠に出会わないのである。 ここで言う諸仏(真実を体得された方)とは、釈尊と同一人格になった人々の事であり、釈尊こそは即心是仏と言う実体を具えておられた方に他ならない。また過去、現在、未来における真実を体得された方々が、例えば坐禅を通して真実を得たと言う状態に入った時は、必ず釈尊と同じ人格、釈尊と同じ体の状態、釈尊と同じ心の状態になるのである。 その釈尊と同じ人格、同じ体の状態、同じ心の状態になったことを即心是仏と言うのである。 今日ただいまの心こそ真実であると言う表現をするのである。

      「正法眼蔵即心是仏」
      1239年旧暦5月25日 
      観音導利興聖宝林寺において、たくさんの僧侶に説示した。

※西嶋先生の解説
以上が「即心是仏」の巻。この「即心是仏」の巻と言うのは、短い巻ではあるけれども、仏教をどう理解していくかと言う上においての非常に大切な問題が含まれている。それはどういう問題かと言うと、精神と物質というものをどいうふうに理解していったらいいかと言う問題。これはギリシャ、ロ-マの時代から哲学の大問題。今日に至ってもまだ解決のついておらない、世界全体の哲学に関連した重要問題。それについて仏教はどういう理解をしておったかということ。

仏教においては、それがまったく一つのものの裏と表であるという考え方を主張された。この「即心是仏」の巻においても、そのことも一つの重要な要素として説かれている。それと同時に、たとえば坐禅を通して、自分の身体の状態、心の状態を釈尊のそれと一致させた場合、現在の瞬間における自分自身の心と言うものに自信を持ってもいい。自分自身の持っている良心と言うものに頼っていい。自分自身の現在の判断と言うものに頼っていい。そういうこともまたこの「即心是仏」と言う巻が非常にはっきりと主張しておられるところ。だから短い巻ではあるけれども、この巻も中々難しい巻である。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
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師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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