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正法眼蔵 即心是仏 9

慧忠禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

(真実を得られた方)は、この世の様々の事物を取り上げて日常生活を送り、またそういうものを投げ捨てて、様々の事物に囚われない境地で生きている。そのことは、理想の姿と言うものを問題にする立場ではない。日常生活を個々の具体的な事物に即して、一所懸命やって行き、またそれを超越していくという考え方であって、理想を取り上げてどうこうと言う説き方ではない。

この事を別の言葉で言うと、釈尊の教えそのものが、今、現に自分の目の前にある。いまに本物になるとか、そのうちに実現するだろうとかと待ち構える態度ではない。なぜならば、釈尊の教えそのものが、今、現に自分の目の前にあるからである。そして、目の前の状態はすぐに消える儚いものだが、いつまでもこのままでいたいと願ったりくよくよしたりする態度でもない。なぜならば、釈尊の教えそのものが、今、現に自分の目の前にあるからである。

我々が住んでいると言われている三種類の世界がある。その三種類の世界とは、欲界(心を働かせて、あれも欲しいこれも欲しいと言う世界。色界(客観的に感覚的に捉えられる物質の世界)。無色界(欲界、色界を乗り越えた行動の世界)。この三種類の世界は歴然としてある。我々の住む世界は、物質的な制約があるために完全な世界ではないけれども、その物質的な制約は制約なりに、それを活用して我々の日常生活はあるわけだから、我々の住む世界は、とてつもなく素晴らしい意味の深い世界と言える。だから、それから抜け出す事を考える必要もない。それは、精神的な抽象的なものだけではない。

心とは何かと言うと、日常生活で誰でも眼に触れるところの具体的な事物に他ならない。それは、泥にまみれた水に浸かったという特別な形容も必要ないし、人間が人為的に創り出したものでもない。仏(真実を得た人)はある場合には、即心是仏(今日ただいまの心が真実である)を参究し、ある場合には、心即是仏(心であり、同時に真実であるところのものは正しい)を参究し、ある場合には、仏即是心(仏は心に他ならない)を参究し、ある場合には即身仏是(今日ただいまの心は、真実であり正しい)を参究し、ある場合には、是仏心即(この具体的な心は、現在の瞬間においてある)を参究する。

※西嶋先生の解説
道元禅師は、中国語が非常に堪能な方でした。ここで、「即心是仏」の四つの文字、つまり即・心・是・仏の順序を入れ替えて様々の思想内容をだされて、物事はあるいは「即心是仏」と言う言葉は、縦から、横から、斜めからと様々の立場から捉えるべきであり、検討すべきであると言う事を言われております。
 


          ―西嶋先生の話―

我々はと言うものが事物の他にあって、つかまえられると錯覚している。心と言うものは、これが心ですと言って取り出してきて、人に見せる事が出来ないものです。例えば達磨大師と慧可大師の問答で、慧可大師が「安心を得たい」ということを達磨大師にお願いしたところが、達磨大師が「よしお前に安心を与えてやろう。その心と言うものを持ってこい」と。「この眼の前にその心と言うものを持ち出してこい」と言う。そこで慧可大師が、それでは心を持ち出して達磨大師から安心を得たいと思って心と言うものを見つけたんだが、さあ見つからない。自分の心と言うものはどこに行って見つけたらいいんだろうといくら考えても、心と言うものがない。だから「どうも心と言うものは、ここに取りだすわけにはいきません」と達磨大師に返事をしたところが、達磨大師が「よし、それでお前は安心し終わった。取り出すことのできない心を、安心させると言うようなこと自体がおかしな話。心そのものがないと言う事がわかった事は、おまえ自身が安心を得た事に他ならない」と。そういう問答をされたというふうに伝えられておる。

心と言うものが抽象的にはあるように錯覚するけれども、具体的な事物そのものが心だと。机が心であり、畳が心であり、柱が心であり、電車が心である。そういう具体的な物を別にして心と言うものはない。同時に具体的な事物である厳然たる事実、厳然たる法と言うものが存在することに他ならない。


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478:もう必要ない by 正田寿男 on 2015/11/10 at 22:12:55

今日残っていた缶ビールを全部流しに捨てました。
今日は1日だけの休みで明日は朝早くの出勤。こういう日はいつも部屋の掃除をします。
いつか捨てるぞ、と心に決めていたことを実行してなんか心が晴れ晴れとしています。
坐禅を始めても続けていた晩酌のビール。
いつしかビールが牛乳に代わって、山と残った缶ビール。
今は坐ることでリセットする習慣が出来たのでもうビールは必要なくなりました。
掃除の後、冬物を出したのですが、衣装ケースに過剰に持っていた靴下や肌着など必要ないものは捨てました。
今別の部屋で過剰な物、必要ない物が指定のゴミ袋にパンパンに入って廃棄される順番を待っています。
なんか生活が普通にシンプルになって、普通をシンプルを良しとするようになってきているように思います。

479:Re: もう必要ない by 幽村芳春 on 2015/11/11 at 11:40:35

正田さんコメントありがとうございます。

私も坐禅を始めたらあまり欲しいというものがなくなりました。朝晩の坐禅が楽しくなり坐禅をしていれば毎日が満足です。
同年代の方々から年金や健康や将来の事などに対して不安や不満をよく聞きます。そこで坐禅をすれば不安や不満もなくなるので勧めるのですが大体の方が聞き流しています。坐禅をすれば毎日の生活がシンプルになり不安や不満がなくなる事に通じると思います。

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫婦で店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。     

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