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正法眼蔵 即心是仏 8

道元禅師が慧忠禅師の言葉について注釈されます。

南陽慧忠禅師は、中国の第六祖大鑑慧能禅師の非常に優れた弟子であり、また偉大な指導者である。この慧忠禅師が示された教えを理解して、仏道を学ぶ上の手本とすべきである。人間のあり方を体と心とに分けて「心」は不滅であるが「肉体」は必ず滅びると言う考え方は、セニカの考え方であり決してこの教えに従ってはならない。ところが、最近では大宋国においても多くの寺院の最高位にある人でさえ、慧忠禅師と同一の見解の人はいない。

遠い昔から、慧忠禅師と同じ様な徳を具えた僧侶は今だかつてこの世に出現したことがない。しかるに世間一般の人々が誤って考えるには、臨済禅師や徳山禅師も慧忠禅師と同じ力量であろうと考えている人が多い。この様に明確に物事を見る事の出来る師匠がいないと言う事は悲しむべきことである。慧忠禅師がここで言っている、釈尊以来代々の真実を得られた方々が保持してきたところの即心是仏とは、外道(釈尊の教え以外の考え方)やニ乗(釈尊の教えを頭の中だけで勉強する人々や、線香やお経など感覚的のものだけで仏教を勉強しようとする人々)にとって、夢にさえ見る事の出来ないことである。

即心是仏(今日ただいまの心こそ真実である)については、唯仏与仏(真実を得た人と同じ様に真実を得た人)だけが即心是仏と言う思想をお互いに理解し、徹底的にその問題を質問し、その問題を実際に実践し実際に体験してきたのである。

※西嶋先生解説
唯仏与仏はどういうことかと言うと、坐禅をやった事のない人は、坐禅の体験というものは分からない。いくら言葉で説明しても分からない。実際にやった事がある人は「ああ、ああいう感じか」と分かる。実際にやったと言う事が、何よりも坐禅というものをよく知っている事態と同じ事を意味するわけです。だから、体験した人でなければ分からないと言う意味が「唯仏与仏」です。真実をつかんだ人でなければお互いに分からない。その点では、真実をつかんだ人と真実をつかんだ人とだけが、即心是仏と言う事の実際の意味が分かるのです。それは坐禅をやった時に感じるものです。それが「即心是仏」の意味です。

だから普段我々は、日常生活において感情的な問題でイライラしたり、クヨクヨしたり、様々な境涯にあって色々な事で忙しく明け暮れしています。たまたま何らかの因縁で足を組み、手を組み、背筋を伸ばしてジッーとしている時、気持ちが落ち着いきて、なるほど即心是仏だなと感じる。

※私の独り言。
知り合いに「坐禅のやり方を教えてください」と言われ、一緒に坐りました、結跏趺坐は無理なので半跏趺坐から始めました。早速、毎日坐禅をすると言っていました。坐禅に少しでも興味を持たれる方には、これからも坐禅を勧めたいと思っています。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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