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正法眼蔵 即心是仏 7

慧忠禅師と僧の問答は続きます。

慧忠禅師言う:
もしお前が今言った様な説明が南方で行われている仏教の説明であるとするならば、インドにおけるセニカと呼ばれるバラモン僧と同じ様な考え方であり、仏道とは違う考え方である。このバラモン僧の言うところによれば、「この我々の生身の体の中に一つの心があって、この心は痛いとか痒いとかがわかる。体が死に絶えてこの世から消えていく時には、魂は体から抜け出して外に出る。それはちょうど家が焼けても、その中の人が外に出て一緒に焼かれる事がないのと似ている。この様に焼かれるとなくなってしまう家は永遠のものではないけれども、この家に住む人は永遠の存在である」と。

この様なバラモン僧の考え方を検討してしていくと、どれが正しくて、どれが正しくないかと言う区別もつかない人々で、何人もこれをよしとすることはできない。自分が諸国を遊歴して歩いていた時代にも多くのこのようなバラモン僧を見たが、最近はきわめて盛んであり、三百人、五百人の人々を集め、ふんぞり返って「これこそ南の地方で行われている本当の仏教である」と称している。しかも、六祖(大鑑慧能禅師)が書かれたのかどうかはっきりわからない「法宝壇経」を取り上げて、さらにこれを直し、本当の真実の話かどうか分からないような卑俗な話を付け加え、本当の正しい教えを切り捨て、これから仏教を勉強しようとしている人々を惑わしている。

この様な教えが、どうして筋の通った釈尊の教えと言う事が出来ようか。苦々しいことではないか。この様な教えがはびこると言う事は、仏教が衰えたという事に他ならない。もし、感受や認識という心の働きを、仏の本質とするならば、維摩居士の言われる「釈尊が説かれた宇宙の秩序は、感受や認識と言う心の働きとは別の事である。感受や認識と言う心の動きは、あくまでも感受や認識に過ぎず、釈尊の説かれた宇宙の秩序を求めることとは別ものである」と言われる筈がない。

※西嶋先生解説
今日でも、仏道、仏教と言うものを説いておる人のほとんど90%は、セニカ(先尼外道)と同じ考え方を仏道だと称して、人間は物質だけの問題ではない、体だけの問題ではない、たとえ病気でも体は弱くても、魂さえしっかりしていれば人生は大丈夫と言う様な事をよく言っている。だいたいそれが宗教だというふうに考えている。仏教も宗教の一種だからそういう考えだろうというふうに考えてきておる。だから今日でも、ほとんど本当の意味での仏道、仏教と言うものはこの世に存在しない。仏教国と言われる日本においても、本当の意味での、仏教、仏道と言うものはほとんど滅びてしまっておるということが、この様な慧忠禅師の考え方と言うものを勉強することによって初めてわかってくる。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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