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正法眼蔵 即心是仏 6

大証国師(南陽慧忠禅師)とある僧の問答です。

慧忠禅師は中国の唐の時代の人である。ある僧が慧忠禅師の寺にやって来た。

慧忠禅師問う:おまえは何処から来た。

僧言う:私は南の方からまいりました。

慧忠禅師問う:南方には、どのような高徳の僧侶がおるか。
 
僧言う:南方には徳の高い僧侶がたくさんおります。
 
慧忠禅問う:では、それらの僧侶は仏道を一体どんなふうにして人々に教えておるか。

僧言う:
かの南方における高徳の僧侶達は、間接的な回りくどいことを言わずに、仏道を勉強している人々に対して、即心是仏(現在の我々が持っている心が真実そのものだ)と教えている。そして、仏とは別の言葉で言えば知覚であり、おまえ達は現在、人間として見たり聞いたり悟ったりと言う心の動きを具えている。この心と言うものがあるから、この心の働きによって眉毛を動かしたり瞬きをする。日常生活において、この心が体全体に行き渡っていて、頭に触るならば頭に触ったことが分かり、足に触るならば足に触ったことが分かる。この心と言うものを、体のどこの部分にも行き渡っている正しい理性(心)と名付け、この理性(心)というものを離れて、それ以外にさらに別の仏があるわけではない。

この我々の生身の体は、生まれたり死んだりがあるが、その中に宿っている魂は、永遠の昔からいまだかつて滅びたりした事がない。我々の生身の体が生まれたり死んだりする事は、龍がその骨を入れ替える事に似ており、蛇が時々その皮を脱ぎ捨てる、あるいは人が火事で自分の家が焼け落ちても、一緒に焼かれる事なくその家から逃げ出して助かると言う事と似ている。この様なところから見ると、我々の生身の体はいつでも滅びる性格をもっているけれども、その中身である心と言うもの、本質と言うものは、永遠であって変わる事がない。南方の僧侶たちが説くところはおおよそ以上のようであります。
         
      次回は慧忠禅師が、この考え方は仏教ではないと説きます。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は問題意識のない時は、坐禅をあんまりしません。坐禅は問題意識の高い時ほど、その効果が現れるという実感があります。ですから、我々が問題意識のない時に長時間坐禅をしても、その坐禅の効果はあまり期待する程ないと、こういう考え方もあるという事です。

先生
ただね、それはちょっとおかしいかもしれない。それはどういう事かというと、空気というものを普段我々は感じないんですね。だから悪い空気からいい空気のところへ出た時に、やっと空気のありがたさがあるんだというご意見と同じだと思うんですよ。空気のいいところでずっと暮らしている人は、きれいな空気の中で暮らしていることが大切なんです。坐禅にはそういう意味があると思います。だから問題意識のある時に、坐禅の効果が感じられるという事、これもありますけど、それと同時に何の問題がなくても坐禅は必要なんだし、また楽しいものですよ。

質問
いや、私は効果の程度を言ってるんです。

先生
う-ん、ただその理論は、例えば極楽の良さがわかるためには無理に地獄にいかなきゃならんと、そういう事と同じだと思います。

質問
先生、無理に地獄へ行くというんじゃないんです。私のは葛藤を求めているんじゃないんですよ。会社生活なり社会生活をすれば、敵が向こうから仕掛けてくるんですよね。求めて地獄に行っているんじゃないから。先生の譬えはちょっと合わないですよ。なるべく順調に仕事をしたいと思っても、そうはいかないってサッと向こうから来るんですよ。お得意さんから「まけろ」とか製品が納期に間にあわないとか、ああでもないこうでもないと。私は平穏無事にと考えているんですが、先様から来るんですよ。そういう時の問題が大きいほど坐禅は効果があるようだと、こういう事です。

先生
その点はどうもそうではないな(笑)というのはね、商売が難しい時だけが坐禅の意味があるんじゃなくて、商売が順調の時も坐禅の意味があるんですよ。

質問
いや、先生、意味があるないじゃないんですよ。いかに坐禅したかいがあったなという、そういうような実感がそういう時に比較的多い。これは形容出来ないことですけどね。

先生
じゃあ、そういう事にしておきましょう(笑)


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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