トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 即心是仏 5

セニカ(先尼外道)の主張に関連して西嶋先生の話は続きます。

だから、明治維新以降日本において説かれている仏教は、全部こういう考え方である。西洋流の宗教観の枠の中に無理に押し込んで、その中に入るものだけが仏教だと理解した。だから明治維新以降、仏教が解かったような、解らないような教えになってしまった。それが今日の実状である。

今日、仏教を勉強しようとしても本当の意味で腹の底から「ああ、そうか良くわかる」と言う教えは非常に少ない。本屋さんに仏教書と言う物は、たくさん並んでいるけれども、どう言う事が書いてあるかと言うと、この世の中は魂だ、精神だ、物質が跡形もなく無くなってしまっても、魂だけが残ればそれが仏だ宗教だとどの本にも書いてある。

ただ、道元禅師が言われる様に、そういう考え方は仏道ではない。仏道というのは、我々がご飯を食べたり着物を着たり、そう言う日常生活の中にある。もっと現実的なもの、それが仏道、それが法と言うものです。だからそういう具体的な現実的なものを勉強すると言う事が、仏教を勉強する事に他ならない。なぜ、我々が「正法眼蔵」を読むかと言うと、一つの意味はそういう問題が的確に書いてあるから。

今日では、仏教を勉強していく場合には、理屈抜きでと言う訳にはいかない。我々は学校で理屈を言う事を教わってきたから、なんでも理屈で割り切ろうとするから。したがって今日、仏教を勉強していく場合には「理屈で通るか、通らないか」と言う事も観点の一つとして一所懸命勉強していかなければ、自分でも納得がいかないし人に教える事もできない。

だから今日では、この「正法眼蔵」と言う本がたいへん貴重になってくる。この様に、セニカの教えは仏道ではないとハッキリと書いてある。だから今後仏教を勉強ていく上においても、仏道の教えをあんまり精神的なものだけで受け取ってはいけない。そして、物質的なものをしっかりと腹に置いて置かないと、仏道というものはわからなくなる。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分ではドッシリ落ち着いていたいのですが、周囲を気にしてしまい、したくない事もみんなと一緒にやってしまうのですが、自分に忠実に生きると言う場合に、そんな事はお構いなしにやったらよろしいんでしょうか。
  
先生
傍に合わせなくてはと言う気持ちと、自分はやりたくないという気持ちと両方あった場合には両方を捨てないで悩むんですよ。徹底的に悩むと、最終的にどの辺に自分が止まればいいかと言うのがはっきり出て来る訳です。それ以前にどっちに行くべきだという原則論で動いてはいかんと言う事ですよ。人生とはそういうものですよ。二つの極端な意見があって、どっちかに従えというのが新聞にいっぱい書いてある。雑誌にいっぱい書いてある。本にいっぱい書いてある。だけれども、我々の人生はそう甘いものではないんですよ。一つの原則が右にあると、反対にかならず左がある。その右の原則と、左の原則のどの辺に自分の位置を置いたらいいかと言うのが、我々の日常生活で毎日、瞬間ごとに要求されている決断です。

だからそういう点では、原則論で右に寄ったらいいんだ、左によったらいいんだと言う事じゃなくて、右と左の対立している考え方の中間で悩みに悩むんですよ。そうして、悩みの果てに「これで行くんだ!」という自分自身の確信が出て来る。そういう確信で動くという事です。それは決して極端な形ではないんですよ。それは、傍から見てもおかしくは受け取られないし、自分自身の良心にも背かないしと言う生き方が必ず具体的にある。そういう、具体的なぎりぎりいっぱいの生き方を仏道と言うんです。ぎりぎりいっぱいのあり方というものが法です。だから、そういう具体的な形で法というものを学び、仏道を学んでいくというのが本当の意味での仏道修行です。
     
質問
その場合、反対側の方から仮に非常に極端に責められたとした場合に、やはり逃げてはいけないわけですか。

先生
逃げてはいけない。そういう場合に、傍がどんなに文句を言おうとも決然として自分の道を行くという事も仏道にはある訳です。その言葉を「異類中行」と言うんです。これは「正法眼蔵」にもよくでてきますがね。傍がどう考えようと、俺はこれでやるんだという決断がついたら、決然として行うということも仏道の中にあるわけです。ただそれと同時に、もう初めから、人に逆らう事が趣味だというような形で、何でもかんでも反対と言う人がいるけれども、そんなのは仏道ではない。やっぱり周囲と自分の意見との間で悩みに悩まなきゃ。その結果「これだ!」と言うところがはっきり出てきた時に、自分の道が定まると、そういうことですよね。
     

読んでいただきありがとうございます。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
476:管理人のみ閲覧できます by on 2015/11/05 at 22:55:29

このコメントは管理人のみ閲覧できます

477:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2015/11/06 at 19:09:12

鍵コメさん、コメントありがとうございます。

私が初めて西嶋先生にお会いしたのは、平成13年アルカイ-ストの「くりのみ会」でした。もしかしたら聞者くりのみさんにもお会いしているかもしれませんね?
西嶋先生にはまだまだご指導していただきたかったのですが、残念ながら昨年お亡くなりになられました。これからも坐禅をして先生の著書を紹介しながら勉強して行きたいと思っています。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

フリーエリア

仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

カテゴリ

FC2カウンタ-