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正法眼蔵 即心是仏 4

セニカ(先尼外道)の主張に関連して西嶋先生の話です。

ここで説かれているセニカの考え方は、決して仏道ではない。西洋流の考え方は、精神と物質とに分ける。つまり、物質的なものを否定して、本当の実在は心だ魂だと言う考え方が、古代ギリシャ、ロ-マの時代から存在する。近代では、カント・フィヒテ・ヘ-ゲルなどドイツの観念論者と言われる人々は、いずれも魂というもの、精神と言うものをこの世の中の中心に考えた。

セニカの思想で「即心是仏」を考えるならば、この心が仏であると言う事を、精神論、観念論の立場と同じ様に考えるのである。この考え方は仏道ではないと言う事を、ここで道元禅師はハッキリ説いておられます。仏教の立場から見るならば、セニカの思想は間違いだ、と言う事を最初に述べておられます。そしてこの事が「即心是仏」の最初の部分における主張であります。この考え方は「弁道話の巻の中でも、我々が死んだ時に魂が抜けだして、他の世界に生まれると言う事は仏道ではない」と道元禅師は言っておられる。

およそ仏教書を読んでみて、こういう問題がハッキリ書いてある本というのは非常に少ない。日本人の書かれた著作では、その点でハッキリ書いておられる著作が「正法眼蔵」。だから我々が、なぜ道元禅師の思想を勉強するかと言うと、こういう考え方は仏道だ、こういう考え方は仏道でないと言う事をハッキリ言っておられるからである。ところが、残念ながら今日の仏教界の仏道に対する理解の仕方は、ここに書かれている様なセニカ(先尼外道)の思想を、仏教だ宗教だと思い違いをして、仏教ではない考え方を仏教と説いている事が多い。明治維新以降、この様な実情で仏教界がずうっと過ごしてきた。
  
なぜ明治維新以降、仏教ではない考え方を仏教だと説く様になったかと言うと、その当時の日本国民は西洋流の思想を一所懸命勉強した。西洋思想における宗教と言う考え方は、上にのべたセニカ(先尼外道)的な考え方だ。そうすると、西洋流の考え方で宗教を勉強し、仏道、仏教を学問的に勉強しようとすると、まず「こういう枠の中にはいる事が宗教だ」と言う考え方でしか勉強しなかった。だからこういう枠の中に仏教を無理に押し込めようとした。ところが、仏教はこう言う考え方ではないから、仏道の大部分のものは、この様な西洋流の宗教観から外へはみだしてしまう。だけれども、学問的に仏道、仏教を押さえるためには、西洋流の宗教観を外してはいけないと言う大前提があるから、西洋流の宗教観に当てはまらないものは全部切り捨ててしまった。
                            つづく--

※私の独り言。
昨日ある人に「テレビで見たんですが、大峯千日回峰行ってすごい修行ですね。あの修行を終えると生き仏になるんですか」と聞かれた。私は「お釈迦様は六年間、厳しい修行を行ったけれども、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと気付かれて難行苦行の修行を捨てられました。そしてお釈迦様は菩提樹の下で坐禅をし、明けの明星を見た時に悟りを開かれたと聞いています。仏教はお釈迦様の教えだから難行苦行などせず、ただただお釈迦様の真似をして坐禅を毎日していることが仏教徒だと思うので、どうして大峯千日回峰を行うのか私にはよくわかりません」と。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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