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正法眼蔵 即心是仏 2

「即心是仏」の巻、本文に入ります。

釈尊以来たくさんの祖師方が、例外なしに保持してきた唯一の教えは即心是仏(現在の心がそのまま仏である)という思想である。これは釈尊以来代々受け継がれてきたのであるから、単に中国だけでなしにインドにも当然あった教えであるが、ある学者はインドでは「即心是仏」という思想はなかったと説く。この教えを聞いて、多くの人々が、中国で初めて生まれた思想だと考えるところから、どこが間違っていて、どこが正しいかと言う事をはっきりと究める事をしない。

そしてどこが間違いか、どこが間違いではないのかがはっきりしないために、仏道に反する考え方を釈尊の教だと考え違いをして、間違った考え方に落ち込んでしまっている。いわゆる「現在の心がそのまま仏である」と言う主張を聞いて、愚かな人々が考えるには、まだ本当のことを知りたいと言う気持ちを起こしていない人々の心の働きと言うものが、「現在の心がそのまま仏である」と思い込んでいる。この間違いの原因は、いまだかつて正しい師匠に出会わなかったからである。

かつて西方インドには、外道(仏教以外の教えを信じる者)がいて、その名をセニカ(先尼)と言った。そのセニカの主張するところは、「我々が求めているところの真実の道は、現在の我々の体に具わっている。その様子はたやすく知ることが出来る。いわゆる苦楽を弁別し、冷たい、温かいを知り、痛い痒いを知覚することである。それは周囲の世界のどんな環境にも影響されず煩わされる事がない。物質は生まれたり滅びたりするが、精神というものは明々白々として常に変わる事はない。この精神と言う心は、至るところに行き渡っていて、凡人と聖者、魂を持っている者と魂を持っていない者と言う差別はない。一切の中に精神的なものが満ち溢れている」と説く。

※西嶋先生解説
今日はこういう精神的なものを信じるという考え方は非常に少ない。だけれども、こういう考え方が昭和二十年以前は日本でも盛んであった。だいたい我々の世界と言うものは精神的なものに満ち溢れている。だから物質的なものは一時の姿であるが、心と言うものは永遠のものである。その心に頼って生きていけば間違いないと言う考えが、教育や社会の動き全般を支配していた。それで一所懸命「お国のため」と考えてやっていたら、戦争を止める力がなくなってしまった。とにかく戦争をすべきだと言うような事で始めたら負けちゃった、と言うのが実情。

今日では、こういう精神的なものを信じると言う考え方は非常に少ない。それよりもお金が大切、美味しいものを食べたいと言う事が世の中の中心になっている。そう言う点では、昭和二十年以前より日本の思想は少し進んだと言えるかもしれないが、それと同時に、物・物・物と言う考え方では、もう一つの大事なもの「心」が、どこかへ行ってしまったと言う点が、今日の非常に危険な状態の原因である。だから、このままに放って置くわけにはいかないが、そうかと言って昭和二十年以前に盛んであった思想が、本当の思想かどうかをよく吟味してみなきゃならない。



          ―西嶋先生の話―
                         --つづき

何をやったかによって人間の価値は決まる。そうすると、人間何をやるかということが我々の生活の中心だということがある。ところが世間一般には今申し上げたように、ものを考えるという事と感ずるという事はよく日常生活にあるけれども、もう一つ一所懸命仕事をするということについては、日常一所懸命それぞれの仕事をやるわけだけれども、その本質的なものがどういうことかという事についての反省と言うものは割合少ない。ただバタバタと一所懸命やっているということ。バタバタと一所懸命やっているということはもちろん結構な事ではあるけれども、それが我々の日常生活。人生においてどう意味があるかということを見直すというのが仏道、あるいは坐禅と言うものの意味。

だから坐禅によって何をやっているかと言えば、我々が一所懸命仕事をやっているのと同じ状態を最も純粋な形で経験するというのが坐禅と言うものの本質。そのことによって、考えすぎる頭と言うものを休めることが出来る。あるいは感覚的にとらわれ過ぎている自分の感覚と言うものをもとの状態に戻すということが出来る。だから坐禅をやるということが、考え過ぎを直すということであると同時に、何らかの物に引かれて歪んでおる感覚を正しい状態に直すという一番基本の問題がそこに潜んでいるわけであります。

我々の状態をそういう本来の状態に戻した時に、良い智慧が湧いてくる。本当の意味での正しい考えと言うものが出て来るし、また感覚的に正しくなっておるということは、判断が正しくなっておるということでもある。だから正しい状態を基準にして人生を送っていくならば、一番自分の目的を早く遂げるということに役立つし、誤りのない人生を送り得るということにもなる。だからそういう点では、坐禅と言うのは自分自身の本来の姿に返って、それによって自分自身の一番素直な人生と言うものを現実に発揮するということに他ならないという考え方が出来ようかと思う。

※私の独り言。
西嶋先生の言っている事を、坐禅生活の中で実感しています。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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