トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 一顆明珠 10

玄沙師備禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

本来の状態が何であるかがよく解っていると言う事は、初めも終わりも正しい状態である。その場合こそ「輝かしい珠」が、その姿そのものを語っている。そういう状態の眼目とは何かと言えば、この玄沙師備禅師が言われた「輝かしい珠」と言う事に尽きる。

しかしながら、自分自身も自分自身を取り巻いている客観的な世界も、一体この玄沙師備禅師の言われた「輝かしい珠」とは何なのか、また「輝かしい珠」でないものとは一体何なのかもよくわからず、あれこれと考えたり迷ったりして様々な形で仏道修行をしてきたけれども、この玄沙師備禅師の真実に適った言葉によって、自分自身の体も心も「輝かしい珠」であると十分理解し、そのことがはっきりわかってきたのであるから、心というものも単に自分だけのものではない。

この我々の日常生活の動きと言うものが生起し、消滅していく瞬間、瞬間を、あれは輝かしい珠だけれども、これは輝かしい珠ではないなどと、自分の日常生活を振り返って、これは駄目、これはいい、と言う事を誰が考える必要があろう。その事は、社会生活についても、あれは駄目、これは駄目とどうして軽率に判断する事が出来よう。その様な事を幾ら考えてもよくわからないという場合があっても、この我々の住んでいる宇宙と言うものが「輝かしい珠」でないということはない。

我々の日常生活の明け暮れと言うものも、輝かしい珠でないところの何かがあってそれを起こさせた我々の行動と言うものではないし、また輝かしい珠でないものが原因となって、我々が心の中で様々のことを考え、様々の思いをしたということではないのであるから、自分の頭を使い様々な心配をしている一進一退でさえ一顆明珠(一粒の輝かしい珠)以外の何ものでもない。


           正法眼蔵「一顆明珠」
           1238年旧暦4月18日
           観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。
           1243年 旧暦7月23日、これを書き写した。 懐弉



          ―西嶋先生の話―

一顆明珠の巻が終わりました。最後のところで「黒山鬼窟の進歩退歩、是一顆明珠なるのみなり」とあります。道元禅師の思想はこの言葉を次のように解釈します。我々の日常生活と言うものは、たとえどんな間違った事、どんな惨めな事、どんなつまらない事が行われていようとも、それらがすべて宇宙の一部であり、それはどんな状態であろうとも、この宇宙の素晴らしさを具えているに他ならないと言う事を強調されています。

こういう点では仏教思想はきわめて楽観的な思想です。しかし、楽観的な思想を考え違いをしてしまうと、それならば何をやってもいいんだと言う事になる。夜中の盛り場を歩いてシンナ-を吸って、それも宇宙の一部ではないか、輝かしい珠ではないかと考える。そう言う考え違いを道元禅師は「自然見の外道」と厳しく言われた。そう言う考え違いに囚われて、そう言う考え違いを基準にして、何をやってもいいんだと言う事は決して仏道ではない。
 
それと同時に、我々が一所懸命仏道にかなう日常生活をしていると言う事は、たとへ周りから見るとどんなにおかしな事であっても、それそのものが仏道の究極を具えている。そして我々が、その仏道の究極から離れない様にするためにやるのが「坐禅」です。つまり、頭でものを考えてああしたい、こうしたいと思っても日常生活と言うものは中々思う様にはいかない。だから、体の方から仏道に持っていくためにやるのが「坐禅」です。

言葉を変えていえば、坐禅をやっている限り人間と言うものは間違いを犯しようがない、坐禅をやっている限り仏道というものから離れる事がないと言う事が道元禅師の思想です。だからここのところの、「黒山鬼窟の進歩退歩、是一顆明珠なるのみなり」と言うのもまた、一所懸命坐禅をやっておればという前提がある。一所懸命坐禅をやっておれば、どんな間違いをしようとも、それが真実に行く途中の過程であり、また真実そのものである。ということを説かれているわけであります。


読んでいただきありがとうございます。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

フリーエリア

ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

FC2カウンタ-