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正法眼蔵 一顆明珠 8

玄沙師備禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

我々は仏道の究極を早く得たいと思い「まだ得られない、まだ得られない」と考えているけれども、我々の人生そのものが仏道の究極と一体のものであり、すでに恁麼(言い難き何ものか)が我々に具わっている。このすでに言い難き何ものかが具わっているということは、別の言葉でいえば、この宇宙と言うものが実に素晴らしい珠のような価値のある世界だということがしみじみと我が身に感じられたときそのものである。

我々の日常生活は、成功したり失敗したりの連続である。ある場合には順調に、ある場合には順調に行かなかったと言う実態でしかない。調子が悪かろうと、調子がよかろうと我々の日常生活そのものが、珠に例えられる様な素晴らしい実在であり、素晴らしい世界である。したがって、宇宙と言うものが、まさにこの様に素晴らしい存在であるとわかってくる事が玄沙師備禅師が「輝かしい珠」と言われた意味である。

我々の日常生活において、様々に聞こえてくる言葉や音の響き、目で見える様々な色や形の全てのものが、この宇宙は一つの輝かしい珠であると言う事を常に説いている、常に語っている、常に見せている。我々の日常生活は、すでに、言い難き何ものかを得てしまっている状態に他ならないのであるから、自分はまだ駄目だと疑問を持つ必要はない。自分はすでに真実を得たこの広大な宇宙の一部に他ならない。広大な宇宙の中で日々営々として努力を重ねている紛れもない真実に他ならないと信じて疑う必要がない。
            つづく--



          ―西嶋先生の話―

恁麼と言う思想は、非常におもしろい思想だと思います。と言うのは我々が普通ものを考えていく場合に、何かがわかるために一所懸命に考えるわけです。究極にはわからんものがあるんだという思想は、世界の色々な思想を訊ねていってもあまり見当たらない。大抵の思想は「これが究極のものだ」と言う様な事がちゃんと説明してある。ただ釈尊は「究極のものは説明できん」と断言されたところに仏教と言う思想の特徴がある訳であります。

我々が日常生活のいろんな問題を考えていくと「究極のものは言葉では表現出来ない」と言う主張が問題を考えていく上において非常に参考になる。また非常に意味がある。仏教の思想はどこに特徴があるかと言うと「最終のものは言葉で説明つかん」と主張されたところに、一つの非常に大きな意味があると言う事が言えると思います。中国の唐・宋の時代は非常に哲学的な水準が高かったために、その事を「恁麼」と言う言葉で表現する様になった。

※私の独り言。
恁麼については、「正法眼蔵」カテゴリ23・恁麼の巻に詳しくあります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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