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正法眼蔵 一顆明珠 6

玄沙師備禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。 

この宇宙とは何かと考えるならば、玄沙師備禅師が言われた様に「全宇宙は一粒の珠である」と言うしか言いようがないところのものである。ここで 玄沙師備禅師は「一粒」とだけ言われて、二粒、三粒と言うふうに個別にこの宇宙を分けて表現せず、宇宙全体がたった一つの正しい宇宙秩序を具えた眼の玉であり、宇宙全体が直ちに真の実在であり、宇宙全体が直ちに一つの言葉(一顆明珠)に集約され、宇宙全体が光そのものであり、 しかも宇宙全体は宇宙全体でしかない。 この様に、宇宙全体が我々にそのまま提示される時には、 目の前に、宇宙そのものが何の障害もなしに現れている。 それは円くて角がなく、またごろごろと転がってい行くものでもある。

我々の住んでいる宇宙は、この様に一つの素晴らしい「珠」と言う性質を具えており、それが現に我々の目の前に現実のものとしてあるのであるから、今この宇宙の中で真実の色、自然の色を見て仏道の究極を悟ったとか、あるいは竹の響きを聞いて仏道の究極を悟ったという観世音菩薩や弥勒菩薩に類する様な仏道における優れた修行者がおり、それぞれの肉体をこの世に現して、釈尊の説かれた宇宙の秩序を説くところの、過去において真理を体得した人、あるいは現に真理を体得した人々が我々の周囲にいる。

西嶋先生解説
ここのところは、その前までは宇宙と言うものをただ傍から見て、客観的なものとして考えてきたわけであるけれども、今度はその中に、人間と言ういうものがあって、真実と言うものをとらえるという働きをしておる。だからこの宇宙というのは単に客観的な世界だけではなしに、その中に日々活動して真実を求め、真実を究めておる様々の人間と言うものがあって、それらも含んだ宇宙である。単に宇宙と言うのは自然現象、天然現象だけではない。
                           つづく--



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は、男女の問題についてどのようにお考えでしたか。

先生
男女については、女性蔑視の思想と言うのは全くないですね。鎌倉時代の僧侶の中で、親鸞上人、日蓮上人、道元禅師、栄西禅師といろいろあるけれども、一番徹底して男女平等論を説かれておるのは道元禅師。平安時代には、いわゆる女性の入れない場所と言うのが沢山あった。つまり、結界と称して男性しか入れない場所と言うのが沢山あった。ついこの間まで大峰山なぞも女性は入れないことになっていた。道元禅師はそのことについて、「非常に滑稽な事だ。釈尊の時代にも、男子の僧侶があったと同時に、女性の僧侶つまり尼僧もいた。それから、仏教徒でも男子があり、女子があった。だから釈尊の教団自身でも、男女の出家、男女の在家の四種類の人々がおって、それによって仏教教団は構成されておった。

「我々は釈尊以上の仏教教団を願う必要はない」と。そのことは、女性を入れない寺院と言うものを作ること自身が実に滑稽な事で、おかしさのために笑いが止まらなくて、自分の腸わたがちぎれてしまいそうだという表現で(笑)男女の差別と言うものを徹底的に批判しておられる。これは「正法眼蔵」の礼拝得髄と言う巻に出てくる。だからそういう点では、男女の平等感と言う点では、道元禅師ほど徹底しておられた方と言うのは珍しいし、今日の思想から見ても、道元禅師よりも遅れた思想の持ち主はたくさんいると思う。今日でも「いやあ、男女平等と言うけれども、やっぱりちょっと違うんだな(笑)と言う考え方を暗々裏に持っている人がたくさんおる。

そういう点では、七、八百年前にこれだけの徹底した考え方と言うものをどうして持たれたかと言うことが、不思議なくらいに徹底している。おそらく坐禅をやって、一切の先入見と言うものを洗い落とせば、そういうことがおそらく出て来るんだと思う。そういう点では「礼拝得髄」の巻でやりますけれども、実に男女間の差別感を否定した点では一番徹底しておられるんじゃないか、そういう感じですね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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