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正法眼蔵 一顆明珠 3

玄沙師備禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。   

ではこの宇宙とはどういうふうにとえられるかと言えば、物質の世界を一所懸命追い回してそれが自分自身だと考える。また自分自身を追い回して、それが結局は物質だと感じとる。宇宙とは、そういう日常生活の積み重ね以外の何物でもない。それが無限に続いていくと言うのが我々の日常生活そのものである。我々人間は、感情を持った動物であり、ものを考える事によって現実から離れてしまうという性格のものではあるけれども、それは頭の向き(その場その場でその場に適した態度)を変える、顔の表情(その場に適した表情)を変えるというふうな、我々の日常の具体的な行動そのものに他ならない。

自分自身を追い回していると、結局は客観的な世界に他ならないという結論に到達すると言う事情から、そういう努力を無限に続けていくということがこの我々の住んでいる世界の実体である。そしてまた日常生活の瞬間、瞬間における、直前の基本的な理論であればこそ、それは単にその場その場の行動の内容だけにとどまるものではない。それ以上の何かを含んでいる。この玄沙師備禅師の「全宇宙は輝かしい一粒の珠である」と言う言葉は、まだそれほど有名な言葉ではないけれども、まさに真実を説かれた言葉である。おそらくこの言葉が有名な言葉になるという事態があろう。

この「一粒の珠」と言う言葉は、つまらないことを乗り越えて、直接永遠の価値のあるものに近づいていくということであり、その永遠のところに直接行くということは、永遠というものが終わらないうちに、現在の瞬間をどうするかと言う問題に尽きる。つまり、永遠の中における今と言うものがまさに現実のものとして現れた状態を言うのである。それが玄沙師備禅師が言われた「一顆明珠」と言われたことの意味である。もちろん我々の生活意識からすれば、現在における体と言うものもあるし、現在の瞬間における心と言うものもあるけれども、結局そういうものすべてをひっくるめて、輝かしい珠と言う表現が現実には該当するのである。
                         つづく--



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
世間一般ではよく、本音とたてまえとの使い分けということを言うようですが、仏教でもやはりそういうものがあるわけですか。

先生
本音とたてまえとが、分かれているところに仏道はないんですね。だから本音とたてまえとが一致した時にはじめて人間は安心するわけです。本音とたてまえを使い分けて、この場合は本音、この場合はたてまえと言う事では、自分自身の気持ちが安定しない。今日の時代が割合不安定な時代と言われるのは、何かと言うと本音とたてまえを使い分ける事が当たり前だと思っている。大体が人に話す時にはたてまえをしゃべって、自分がこっそりやる時は本音でいく、と言うのが大体の生き方。

その事が、今日の社会が割合不安定になっている大きな原因ではなかろうかと思います。だから、本音とたてまえとを一つにして、本音とたてまえをのりこえた自分自身を見い出すと言うのが仏道修行だと言う事になる。だから仏道の世界においては本音とたてまえの使い分けはない、というふうに理解していいと思う。

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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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