トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 一顆明珠 2

玄沙師備禅師は雪峰義存禅師峰に師事する以外に、その他の師匠を訪ねることはしなかった。しかしながら師匠の説かれた教えを受け継ぐだけの力が具わっていた。そして真実と言うものをつかんでからは人に教えた。

玄沙師備禅師言葉を示す。
この宇宙全体は、一粒の輝かしい珠に他ならない。我々の住んでいる世界は実に素晴らしい。

僧問う。
今示された言葉を、我々学人はどのように理解したらよろしいでしょうか。

玄沙師備禅師言う。
我々の住んでいる宇宙と言うものは、まさに一粒の輝かしい珠に他ならない。理解をしようとして何の役に立つ。

ところがそれからしばらく経って、今度は逆にその僧侶に玄沙師備禅師が質問して言う。
この我々の住んでいる世界は、輝かしい一粒の珠だ。お前はこの言葉をどう理解しているか。

僧言う。
この我々の住んでいる世界は、輝かしい一粒の珠に他ならない。理解をしようとして何の役にたちましょうか。 
 
玄沙師備禅師言う。   
お前の言葉は口先だけの、頭の中で考えた返事だ。お前はやはり、頭の中で考えた世界に向かって無駄な努力を続けているに過ぎない。
     
玄沙師備禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈です。
今言うところの「全宇宙は輝かしい一粒の珠である」という言葉は、玄沙師備禅師に至って初めて言われた言葉である。その言葉の趣旨とはどういうことかと言うと、この我々の住んでいる世界は、広いとか大きいとか、四角いとか丸いとかと言うレッテルを貼るわけにはいかない。また真ん中であるとか正しいとかと言うふうな形容詞でも形容できない。活発な姿をして、生き生き活動しているという面もあるけれども、それだけでは説明できない。あるいは何もかもがすべて丸見えだという様子もあるけれども、それだけではない。

さらに日常生活と言う抽象的な言葉では形容できないものであればこそ、この宇宙は何かと言えば、泥まみれになって一所懸命働くと言う日常生活が全宇宙の実体である。今述べた様に日常生活そのものだということからすれば、もう昨日のことで過ぎてしまったものも、この我々の日常生活の中で現実にあって、それが過ぎ去ったという事に他ならない。また現在ここにあるということは、この具体的な現在の瞬間、この我々が身を置いている現在の場所があって初めて、現在と言うものがあり得る。この様な現実の我々の生活というものをとらえてみるならば、それは刹那的事象(瞬間、瞬間のもので、あっと言う間に消えてしまって、甚だ頼りないもの)とは言い切れない。また、不動(永遠の過去から永遠の未来に繋がる動きようのないもの)と言い切れるかと言うと、そうも言い切れない。
                            つづく--
   
西嶋先生解説
この我々の住んでいる世界は、輝かしい一粒の真珠に他ならない。 その事は「言葉」で言ったという事に意味があるのではなくて、自分の実感として感じるべきだ。 自分の生活意識そのもの、自分の生活感情がまさにそういう感じで我々に迫って来る、そう言う意味で言われたのである。 だから弟子の「どの様に理解したらいいでしょうか」言う質問に「理解しようとして何になる」と答えた。 それは理解の範囲を超えた問題だから。 坐禅をした時の境地とはこういうもの、理解の範囲を超えたもの。 だから坐禅をして理屈がわかると言う事はない。 坐禅をしている時の落ち着いた気持ちが玄沙師備禅師が言われた境地である。 だから、それは自分の体験として、実際に感じるところに意味がある。 実際に坐禅をやってみる事によって、それが得られると言う事にほかならない。 理解の問題ではない。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


     
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-