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正法眼蔵 現成公案 10

道元禅師の説示は続きます。

ある時、麻谷山の宝徹禅師が扇を使っていた。そこへ僧侶がやってきて質問した。

僧問う
空気は、どこにでも存在し、空気の存在しない場所はないというのが空気の性質とされています。和尚はわざわざ扇を使わなくても、空気はどこにでもあるのですから、その空気に当たれば涼しいはずなのに、扇を使うことは理屈に合わないと思います。どのような理由から扇を使われるのですか。

宝徹禅師言う
お前はただ、空気がどこにでも存在する性質だということを知ってはいるが、空気の存在しない場所はないという理論をまだ知らない。

僧問う
どのようなことが、空気の存在しない場所はないという理論の意味ですか。

これに対し、宝徹禅師は黙って扇を使って行動を通して弟子に示された。僧は「わかりました」という意味で師匠に対して礼拝した。

西嶋先生の解説 
この黙って扇を使っていたということが宝徹禅師の解答。空気というものはどこにでもあるはずだ。扇を使わなくても風が来るはずだ。理屈では確かにそうだけれども、現実の世界というものは、扇を使うという行動を通して初めて風が来る。空気がどこにでもあるということは何によって実現できるかと言うと、扇をあおぐと言う人間の行動によって生まれて来る。だからこの現実の世界と言うものは、そっとしておけば、人間が行動しなければ何にもないのと同じ。人間が行動して初めてこの宇宙と言うものは生き生きとした姿を現してくる。そのことをこの扇を使うということを例にして説明されたわけ。

宝徹禅師と弟子の問答について、道元禅師の注釈です。
釈尊の説かれた宇宙秩序の実際の例とはこの通りであり、正しく伝承されたところの生き生きとした行動の世界はこの様である。空気には、どこにでも存在する性質があるのであるから、扇を使うのは不合理だとか、扇を使わない場合でも風を感ずるべきだとかいうのは、どこにでも存在するということについて理解せず、空気の性質についても理解していないのである。つまり、この現実の世界がわかっておらず、理屈の上で理論を割り切ろうとすれば、現実のあり方から離れてしまう。

空気の性質はどこにでも存在する。それとと同じように、この宇宙秩序もどこにでも存在する。誰の体の中にも存在する、誰の心の中にも存在するものである。したがって我々の住んでいる世界というものを、素晴らしい世界にするのも駄目にするのも、我々自身の行動によって決まる。我々自身が素晴らしい行動をすれば、この宇宙も素晴らしい世界になるし、我々自身がおかしなことをやれば、この宇宙もおかしな世界になってしまう。

            「正法眼蔵現成公案」
            1233年旧暦8月15日頃、九州地方の在家の弟子である
            楊光秀に書き与えたものである。
            1252年これを収録した。(懐譲)


  
               ―西嶋先生の話―

今日は「坐禅と健康」の問題を考えて見たいと思います。元来、宗教と言うものは精神的のものだと考えられている訳です。ですから坐禅の様な宗教的な修行に関連して体との関係を説明すると、どうも有り難味が薄くなると言う感じがある訳です。仏教思想は何回も出てきたように、四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つの考え方)を基礎にした宗教であります。その中の集諦と言う考え方は、我々の生きている世界は物の集りだという考え方です。

だから坐禅もやはり我々の体の問題、健康の問題と関連して考えていかなければならない面がある訳であります。そこで、坐禅は体の面から考えると、どういう事なのかと言う問題を考えて見ます。道元禅師が1227年に中国から帰国されて、その帰国された時期が夏の終わりか秋の初めと言われているわけです。その年の年末にかけて、京都の建仁寺におられた数ヶ月の間に書かれた本に「普勧坐禅儀」と言う本がある訳です。

「普勧坐禅儀」とは、あまねく坐禅を人に勧める場合の坐禅のやり方と言う意味の表題であります。この「普勧坐禅儀」によって、道元禅師はご自身が中国で勉強してこられた仏道、坐禅の基本的な考え方を述べておられます。非常に短い本ですが、道元禅師の考え方を勉強する上においては大切な本であります。「普勧坐禅儀」の中に「すなわち正身端坐して左に側ち右に傾き、前に躬り後に仰ぐことを得ざれ」と言う言葉が載っている訳であります。

坐禅を考える場合に、この言葉が非常に大切な言葉であります。つまり我々は坐禅をやっている時にどういう事に注意をすればいいかと言うと、自分の背骨が正しく垂直に立っているかどうかと言う事が一番大切であります。健康な体を保つと言う点では、我々の背骨を正しい状態においておくと言う事が非常に大切であります。最近まではそういう事があまり問題にならなかったから、坐禅をしなくても人間は健康が保てると考えられている訳であります。しかし、坐禅には限りませんが、何らかの形で背骨というものを正しく積み上げて置かないと人間は健康が保てないという事があろうかと思います。

坐禅の様な修行を毎日して、背骨を正しい状態に維持しているという事が仏道修行であり、我々の人生を一番楽しく生きる方法につながる訳であります。健康であると言う事が、人間が生きていると言う事の最大の楽しみの一つだと言える訳であります。体が壊れてしまってから「なに、精神力で頑張れば!」と言う事で、歯噛みをして頑張ってみても、人生が本当に楽しいのかどうかは大変疑問であります。その点では、ご飯が美味しく食べられる、夜眠れる、気分が常に爽快である等と言う事が大切な人生の一つの要素でありまして、そういう状態を維持する為に坐禅と言う修行法は不可欠だと言う事がいえると思います。もっと努力家の人々は、朝、運動の為に道路を走ると言う人もいる訳ですが、勿論そういう形で背骨を正しく維持する事は可能であります。

ただ、そういう形で背骨を維持する事と、自分の部屋で三十分なり一時間なり坐禅の形でジ-ッと坐っている事と、どっちが楽で長続きするかと言うと、やはり坐禅の方が楽だと言える訳であります。ですから、健康を維持したいと思ったならば、最低は坐禅をしなければならんと言う事情があろうかと思います。現代はそう言うふうに考えられておりませんから「坐禅をするのは、変わり者」と思われている訳です。「あの人は坐禅をするそうだけど、少しおかしいんじゃないか」と、こういう見方が世間一般の見方でありますけれども、逆に健康との関係で坐禅を考えて行くならば、坐禅程度の修行が毎日出来ないならば、人間は人間として生きられないという事、これは非常にはっきり言えると思います。

つまり背骨がガタガタになっていたんでは、人間としての状態もガタガタになっているという事。苦しいと思ったり、楽しいと思ったり、今日は調子がいいと思ったり、今日は調子が悪いと思ったりして、落ち着きのない形で送っていくのが本当の人間の人生と言えるかどうかと考えてみますと、非常に疑問になる訳であります。自分自身で自分の体を管理しながら健康な状態で毎日生きて行くという事が、人間の最低限の生き方であるし、そういう「最低限の生き方の中に人生の楽しみがある」と、そういう事が言えようかと思う訳であります。ですから、仏教は我々の健康、我々の体の状態と非常に密接な関連を持った宗教であると、こういう事が言える訳であります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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