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正法眼蔵 現成公案 9

道元禅師の説示は続きます。

この行動の世界、この行動の場所というものは、抽象的に、それは偉大だとか、それはちっぽけだとか、言葉で表現できる様な世界ではなくて、もっと現実的な、もっと直接の場面である。自分自身だとか、自分以外なものだとか、主観だとか、客観だとかと言う風な論議だけで、割り切れたというふうに思っているわけにはいかない。この世界あるいは我々自身と言うものが、過去から恒常的に存在しているというものでもなく、たった今瞬間的に出現したものでもない。今ここに現にあるということは、過去がどうこう、未来がどうこう、現在がどうこうと言う様な理屈ではない。しかもここに現にあるということ、これが絶対の事実であり、法の世界、行動の世界である。

この様に我々の住んでいる世界は瞬間瞬間の世界であるから、人が釈尊の教えを実践しそれを体験するということは、一つの場面において一つの宇宙秩序をつかんだと言う事が、その宇宙秩序に通達したと言う事である。 一つの行動を実際にやるか、やらないかと言う事が我々の人生のすべてである。 実際に現在何をやるかが我々の住んでいる世界の実体であるけれども、こういう行動を通して、現実の場面というものが生まれ、また何をやらなければならないかが明々白々として我々に知られるのである。

それでは、我々の行動の中ではっきり意識して一切のものがわかるかというとそうはいかない。自分で意識してはっきりよくわからないのはどうしてかといえば、行動の世界においては我々自身が法というものと一体になって、その中に入り込んでしまっているから、意識の上でははっきり「あれがあれ、これがこれ」というふうにわからない状態にあるのである。したがって我々の日常生活において把握できたところのものが、自分自身に「ああ、あれがあれ、これがこれ」と言うふうによくわかって理性的に「よくわかった、うん、一切がわかった」と言う事ではないと言う事を知らなければならない。 そしてまた、体験において理屈ではなしに「よくわかった」という状態が実現したとしても、一切合財何でも我々の目に触れてわかると言うものでもない。 この我々の住んでいる現実の世界とは、あれこれと言葉で決め付ける事のできないものである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は「坐禅は一日に45分やればいい」と言われましたが、「正法眼蔵随聞記」を読んでみると、道元禅師も懐弉禅師も一日中坐禅をやっていたみたいです。そんなにしなければならないものなんでしょうか。

先生
いや、私はそうは思わない。自分の経験において一番大切な事は坐禅は毎日やる事。時間が長い短いよりも大切な事は、毎日やる事。だから毎日やれるようになってから長い時間やるのは大変結構だけれども、飛び飛びに長い時間やったんでは、仏道修行は中々達成できないと言う問題があるわけです。だから、私は短い時間でもいいから「毎日やれ」という事をいうわけです。長い時間やると言うのも楽しみな事だし、結構な事ではあるけれども、飛び飛びに長い時間やったんでは坐禅の効果は出てこないと私は思っています。

だから、皆さんには毎日やる事をお勧めする訳です。たまにちょっと長い時間やるのなら、頑張って歯を食いしばってやればやれない事もないけれども、毎日やれって言われるとどうもうまくいかないと言うのが実情だと思います。しかし、やっぱり毎日やれる様になって初めて坐禅のよさがわかって来るんですよ。確かに懐弉禅師にしても「正法眼蔵随聞記」に述べられている通りだし、それから天童如浄禅師にしても、坐蒲を袂の中に入れておいて、暇さえあればあっちこっちで坐っておられたと書かれています。まさにその通りであったと思うけれども、それは毎日の坐禅をやれる様になって、それからさらに長い時間やる様になったと、こう言う事だと見て間違いないです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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