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正法眼蔵 現成公案 7

道元禅師の説示は続きます。

自分の体、自分の心に宇宙の秩序というものがまだ十分に行き亘っていないうちは、すでに宇宙の秩序が自分の体、自分の心に行き亘った様に感じられる。人間が完全に出来上がってもう十分という状態になると、なんとなく何かが欠けているような感じがするものである。たとえば船に乗って、山や陸地が全く見えない海の真っただ中に出て四方を眺めてみると、ただ海が丸く見えるだけでその他には何も見えない。しかしながらこの大海原は、海中に入ってみれば、岩があり、海の底があり、決して真ん丸というふうな単純なものではない。

丸くないから四角かというと、四角だというだけのものでもない。それ以外の海の性質も非常に多く、全部考え尽くそうとしてもそれは到底出来る事ではない。海は魚達にとっては自分たちの住まう宮殿である。山も陸地も全く見えない海の真っただ中で、四方を見れば丸く見えるという事も、そういう事態の時には自分の目に丸く見えるに過ぎない。この様に海にも様々な性質があると同じように、この我々の住んでいる世界に存在する一切のものもまた、同じように様々の性質を持っている。

世間的な見方や出家間的な見方等々により、宇宙も多くの様相を呈してはいるが、それは一所懸命勉強して具わった結果の見方で見た範囲のものだけが見え理解されるに過ぎず、現在の自分の理解、自分の見方というものが絶対だと考えるわけにはいかない。この宇宙に存在する様々の実在の様子を知ろうと思うならば、それが四角いとか、丸いとかと言う単純な表現で捉えられる他に、海が持っている性質、山の持っている性質は限界がなく無限の状態であって、そのような形で四方の一切の世界が成り立っているという事を知るべきである。

自分の周囲だけがそのようにあるということではない。自分がいま何をするかという問題に関連しても、その今というものにも様々の内容がある。単純に一つの言葉で説明できるほど簡単なものではない。ごくわずかな水の一滴にさえ様々な性質があり、それを単純に一つの言葉で片付ける事は出来ない。そういう複雑なものや単純な形で片づけえないものがこの我々の住んでいる宇宙である。




              ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は「人が死んだ後、さらに生きることはない」と言いますが、第二次世界大戦で七生報国(七回生まれ変わっても、朝敵を滅ぼさん)という鉢巻をして、日本の特攻隊の勇士が散華していった。そういうことを考え合わせますと、人が死んだ後に生きるという事はないという事と、「七生報国」というものはまことに空言と断定せざるを得ないんですが、先生の考え方は・・・・。

先生
その点では言われたような面が確かにあると思います。それと同時に、人間の心意気と言いますかね、つまり何回でも生まれ変わって尽くすんだという心意気は、人間の生き方としてあるんですよ。だから、生まれ変わってもう一回人生があるという風なことではないと同時に、いま生きて一所懸命にやってる、仮に死んでも、生き返ってまた同じことをやりたいという人間の心意気、これは否定すべきではないと、そういう問題があると思いますよね。

質問
そうすると、「人が死んだ後、さらに生きるという事はない」、という事、それを絶対断定しているわけじゃないという事でございますか。

先生
いや、そういう事ではなくて、断定しておるんだけれども、現に生きておる人間の心の持ち方として、たとえ死んでももう一度生き返ってという風な考え方がないわけではない。だから、事実がそうだと言うんではなくて、人間の考え方としてそういう考え方があると言う事を言っているわけです。さらにその問題を詰めていきますと、そういう考え方を持つことがいいかどうかという問題になるわけですけれども、そういう考え方を持つことについては危険である、これは言えると思うんです。だからそういう点では、七生報国という風な思想、ものの考え方というものが古来からあるんですが、それを安易に認めるという事は危険だという問題があると思います。

質問
そうすると、七生報国というのは、曹洞禅の考え方じゃなくて、臨済禅の考え方ですか。

先生
というよりも、仏教思想と違う考え方だと言うことが出来ると思います。 つまり仏教思想と違う考え方では、我々には霊魂というものがあって一度死んでも何回となく生まれ変わってくるという思想がある。 それは東洋にもあるし西洋にもある。 そういう精神的なものの実在を信じる思想と言うのは、中国にもあるしインドにもある。 人間社会がある限り、そういう思想はどこの社会にもあったし、あるという風に言ってもいいと思う。

ただそういう考え方とそれ以外の考え方と、どれを選ぶかというところに、信仰をどう選ぶかという問題がある。 世の中をどう捉えるかという問題がある。 その点では、七生報国という考え方は、その人々の心意気はわかるけれども、それを正しいと思う事に問題があると思います。 日本にも中国にも、昔から七生報国という考え方があって、たとえばに日本でも南北朝時代の楠正成とか楠正行とかという様な忠臣に関連して、徳川時代の漢学者あたりがその功をたたえる意味で、七生報国と言う様な表現を使っているわけです。

しかし楠正成とか楠正行が本当に死んでからもう一度生き返ってくることがあり得るという風に考えていたわけではなく、漢学者の詩人的な感覚がこのような表現を使わせたという風に考えるべきだと思います。 では人間は一度死んでからもう一度生き返ることがあり得るかというと、これは「正法眼蔵」において説かれた思想を基礎にして考えてみるとあり得ない。 また現に生きている人生の他に、まだ何回でも別の人生があり得るのだという考え方を採ると、現在の大切な人生を粗末にする惧れも出てくると思います。 つまり一回限りの現在の人生を悔いなく送ることが仏道だと思います。 そういう観点からすれば、七生報国という考え方も、現に生きている我々の心意気として考えるならば大いに意味があるわけですが、人間はたとえ死んでも、何回となく生き返ることが出来るのだというふうに、具体的にこの現世の生活以外に別の生活があり得るのだと考えることは危険です。

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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