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正法眼蔵 現成公案 6

※西嶋先生の解説から始めます。
この「現成公案」の巻の「現成」とは、現に目の前にあるという事。「公案」とは、法という事で我々が住んでいる宇宙。現に目の前にある宇宙というものがどういうものかという事を道元禅師がお書きになった書物です。ここではよく仏道で「悟り、悟り」と言われているけれども、その悟りとは一体どういうものかということを説明しておられます。

本文に入ります。
人が悟りの状態に入ったと言う事は、水に月が映るのと同じようである。田んぼの水にも、小川の水にも、バケツの中の水にも月が姿を映す。それと同じように、どこにおいても、誰にでも、その悟りというものは瞬間にすぐ現れて来ると言う事ができる。各人が悟りの状態に入ったという事が個々に実現しても、そのもとになっている悟りというものがどこかにあって、その個人に移った分だけ減ったと言う様な事はない。ちょうど月が水に映っても、それによって月が濡れたという事もないし、また月が入り込んだから水の方が破けてしまったという事でもない。水は水でそのまま、月は月でそのまま。しかも月の姿が水に映る。それと同じように、人の状態にも悟りの状態というものが現れる。

悟りというものは非常に大きなもので、宇宙全体を包みこんでいる。また月の光も広く大きなものであるけれども、一尺のバケツの中にも大きな月がそのままそっくり入り込むし、茶碗の中にも、汲んだ水の中にも月は映る。草の葉に置いた一滴の露の中にも月全体の姿が映るし、天のすべても草の上に置いた露の中に入り込む。また「ポツン」としたたり落ちる水のしずくの中にも月全体が映る。
   
そして悟ったという事が、その人の形を変えたり心を変えたりする事ではない。月が水の中に映っても、それによって水がえぐられて形が変わったというような事はない。水はもとのままの水の姿で表面は平らであって、その上に月が映るのと同じように、人は悟ったからといって、特別に人から目立つようになったり、理屈をこねるようになったと言う事はない。ごく普通の人間が普通の状態になったということ。それが、悟りに入った状態に他ならない。

そしてまた、人が悟ったからと言って、その事が今度は宇宙全体の大きな実在というものの邪魔をしたり障害になるという事はない。人が悟ったからといって、周囲の人を傷つけ全体を傷つけると言う事はない。それはちょうど草の上に置いた露が空を傷つけたり、空に輝いている月を傷つける事がないのに似ている。そして悟りが深いという事は、月が高く天空に輝いているのと似た様な状態だと考えてみればよい。

月に映る水に関しても、大きな水(海や湖)や小さな水(バケツの水や茶碗の水)があるのと同じように、悟りに関しても、長い時間、短い時間があるということを個々に調べればよいのであるし、また天空や同じ月でも、水の上に宿ると大きくも小さくも映るという事実を材料にして問題を考えてみればよい。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
文芸と言う様なものでは、物書き、作家というものが自分の心の奥底までさらけ出して、せっせと悪事を働いていることについて書いている。いかがでしょうか。

先生
うん、まあそれで結局妄想と言うものもかなり大事なものではある。人間のかなりの部分妄想ですよ。妄想の集積。だから文芸作品と言うものも、妄想の作り方の競争と言う面がある。「あの作家はここまで作り上げた、俺はもっと、あの作家以上の妄想を積み上げよう」と言う風な努力があるわけ。それも文化の一部分であることは間違いない。しかしそういうことが人生の中心かと言うことになると、これには疑問があるわけですよね。

だから、中心がはっきりあって「あの妄想はよくできた、この妄想はよくできた」と言う風な、鑑賞するだけの立場であれば問題はないわけ。ところが、(極)端に行くことが人類の文化の最先端だということで、(極)端へ(極)端へと行ってしまえば破滅があるわけです。だから文学者がよく破滅するのはそれですよ。だから文学者と言えども、人間として生きなきゃならんから、その点では、しっかりした立場を持ちながら、妄想の競争をやればいいわけです。人間の立場と言うものを踏み外してしまって、妄想だけに明け暮れすれば、結果としてはかなり悲惨な結果もあり得ると、そういうことが言えるんですよね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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