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正法眼蔵 現成公案 5

道元禅師の説示は続きます。

人が初めて釈尊の教え(宇宙秩序)を勉強してみたいという気持ちを起こした時には、本当の現実の世界というものからはるかに遠く隔たっている。しかしながら釈尊の教え(宇宙秩序)が正しく自分自身の体の中に染み込んで来て、法と自分とが一つになった時にあっては、本来の面目に安住した人格になり切っている。

法と自分との関係とは、人が船に乗ったときの経験を頭において考えて見ればよい。人が船に乗っていく際に、遠くの岸を眺めていると岸の方が動いているように錯覚する。目を直接に船に向ければ、水の中を船が進んでいるのがわかる。それと同じように自分の体、自分の心というものを基準にして、この宇宙の一切を判断しこの現実を頭で割り切ろうとするならば、自分自身があり、自分自身が考え、自分自身が感じ、自分自身が行動していると思いがちである。自分自身といういつまでたっても滅びない実体というものがあるように感じられる。

しかし自分の行動をしっかり把んで、具体的な場面に我が身を置くならば、この宇宙全体が自分自身に帰属する事はありえない。自分自身の他に厳然とした宇宙が存在する、あるいは自分自身をも含めて厳然とした宇宙が存在する事は明々白々である。薪は灰になる。しかし灰が薪になることはあり得ない。しかしながら、この事から、灰は後の状態、薪は前の状態と言う判断をしてはならない。

銘記せよ。薪は薪としてこの世の中の地位を占め、前もあれば後もある。また灰も灰としてこの世の中の地位を占め、前もあれば後もある。しかも前もあり後もありながら、前との間、後ろとの間はいずれも切断されている。薪が灰となった後、さらに薪なることがないのと同じように、人が死ん後、さらに生きるという事はない。しかしながら生が死に変化するという主張をしないことが、釈尊の説かれた教えにおける定まった原則である。この様な理由から、仏教では生のことを瞬間瞬間における状態と把え「生起」しないという。また死が生に変化しないということも、釈尊の説かれた教えにおける定まった原則である。このような理由から仏教では死ぬ事も瞬間瞬間における状態と考え「生滅」しないという。

生もある瞬間における状態であり、死もある瞬間における状態である。それはたとえば、冬と春の関係の様なものである。冬が春に変わったと言う考え方をしない。冬の時は冬、春の時は春。春が夏に変わったという考え方をしない。春の瞬間瞬間があって、夏の瞬間瞬間があるにすぎない。これが仏教的な考え方である。



          ―西嶋先生にある人が質問した― 

質問
「生きる事も一つの時間における状態である。死ぬ事も一つの時間における状態である」と言うところは、輪廻転生と言うものを全く否定しているということですか。

先生
いや、そうではないです。ここの所では輪廻転生ということ、まあ、輪廻転生ということの意味にもよりますけれども、人間が死んでから次の世界に生まれ変われるという思想は含んでおりません。ただ「一つの時間における状態である」と言っているのはどういう事を言っておられるかと言うと、人間は生きるにしても死ぬにしても、瞬間瞬間の存在であり、瞬間の連続だということを言っておられる。だからそのことは、原因・結果の関係と言うものは明白である。ただそれが瞬間瞬間で断ち切られているから、直接の連絡はないと。

質問
子供が大きくなれば大人になる。しかし大人にならないうちに死んでしまうということもありますが・・・・。

先生
若死にした子供と言うものも、やっぱり人としての尊い一生だったということは言える。だからあの人は長生きしたから幸福だとか、あの人は早死にしたから不幸だということよりも、その人が人生をどう生きたかということの方が問題だということはある。若死にした人でいい仕事をした人はたくさんいますね。たとえば石川啄木とか正岡子規だとか、若死にしたけれども、非常に優れた仕事を残したという人もおれば、そうでないという場合もあり得るわけ。だからその人、その人にとっての一生と言うものがそれぞれあるわけで、自分の与えられた一生を全力投球すれば、それが立派な一生と誰についてもいえる。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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