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正法眼蔵 現成公案 4

感覚と外界の世界との関係を述べています。

身心を挙げてものを見、心身を挙げて音を聞く場合、直接に認識はするけれども、その様子は、鏡に映像が映り水に月が映るのと同じように全部見えるということではない。耳で聞いたものについても、聞こえたことだけが聞こえるのであって、それ以外のものが聞こえるわけではない。一つのことを体験している時には、それ以外のことは体験できない。

人間の行動に関連した法と自分との関係を述べています。
仏道をならうというは自己を習うなり。自己をならうというは自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および陀己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。(好きな言葉なので原文も書きました)

釈尊の説かれた教えを学ぶと言う事は、自分自身を学ぶという事であり、自分自身を学ぶということは自分自身を意識しなくなることである。また自分自身を意識しなくなるということは、自分自身が宇宙を支配している原理にによって行動させられることである。そして自分自身が宇宙を支配している原理によって行動させられるということは、自分だとか外界の世界だとかと言う区別がなくなることである。そういう状態になると、自分が悟ったということもどこかに忘れてしまいどうでもよくなってしまう。しかも、どうでもよくなってすっかり忘れてしまった悟ったという事実が、日常生活において長々と発揮されるというのが、悟りということの意味であり実体である。

※西嶋先生解説
釈尊の教えは、本を読んでもそのものズバリは書いてない。修行の方法は書いてあるが、そのすべてがわかるという形にはなっていない。釈尊の教えは、どういう形で勉強するかというと坐禅のような形で実際に体験するしかない。何を体験するかというと、自分自身を体験する。足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッしている行いにより、「自分とは何か」と言う事を理屈ではなしに、体全体で勉強するというのが坐禅の中身である。

普段我々は自分というものを意識している。自分が損をした。自分が人から褒められた。自分が人から悪口を言われた。自分の親がどうだ。自分の子がどうだ。自分の友達がどうした。何でもかんでも自分というものを基準にしてものを考える。本当の自分を勉強をすると言う事は「俺が、私が」と、頭の中で考えてたありもしない自分というものをなくす事である。本当の自分というものは、頭の中で考えられた自分とは違う。本当の自分というものが出てくるためには、頭の中で考えられた自分というものが消えていかなくてはならない。坐禅をやって本当の自分というものが出て来ると、頭の中で「どうしたらいい、こうしたらいい」という考えではなしに、自然にやらなければならない行動が出来る様になる。



              ―西嶋先生の話―

道元禅師が、深草の興聖寺において、初めて僧堂を開かれた時の説法で、「日はひんがしより上がり、夜々、月はにしに沈む」と言われている。太陽は朝東より出て、月は夜々西に沈んでいく、これが奇跡にも類する様な非常に貴重なことだという説法をされている。我々も、「日はひんがしより上がり、夜々、月はにしに沈む」という事はごく当たり前のことで、普通は有り難いとも何とも思っていないわけだけれども、もし仮に、太陽が今日は休みだ、朝出ません、という事になったらこれは大騒ぎ。

そんなことがないから我々は安心して生きていかれるんであって、その点では、ごく普通のことが順調に行われていくという事が非常に貴重なこと。それがまた仏道の究極でもあろうかと思うわけです。そういう点では我々が先ほどやった坐禅も、きわめて普通の状態に戻るという事、自分が自分になるという事、これが仏道の目標であり坐禅の狙いだという事になる。本来の自分に返った状態を一度でも経験していると、それが自分の中心になっていくわけ。

そうすると、あんまり突飛なことに自分が行きかけると、「待てよ」と言って、本来の状態に戻るという基準が出来るわけ。そういう基準があると、大きくこの人生を踏み外すという事はない。ところがそういう基準がないと、どういう風にやったらいいかと言う見当がつかない。そうするとサラ金から金を借りまくって大いに派手にやって、そのうちに一発当たればと考えていると、金利がかさんでしまって、金利を払うために一所懸命骨身を削るという事にもなりかねない。またいい調子になって酒を飲んで札びらを切って、「これが人生だ、これが人生の楽しみの最高だ」と思っていると、いつの間にか体を壊したり、あるいは生活が立ちいかなくなったりという風なことがありがち。

そうすると、目先のごく普通の仕事をコツコツ、コツコツとやっていくことが人生の最大の目標。私なども、六十年近くこの世の中に生きてきたわけだけれども、過去を振り返ってみて、身になって残っておるというのは、ごく普通のコツコツとした努力だけ。その他、色々とバカ騒ぎもやったけれども、そういうものはその場、その場のことで、人生の中身としては残っていない。何が残っているかと言えば、コツコツ日常生活を一所懸命にやった積み上げだけが人生の中身という事にならざるを得ない。そういう事もごく最近わかってきた。

今までそういう貴重なことはさっぱりわからなかった。どれが人生かよくわからなかったけれども、最近そういう風なことで、結局、人生というものも、コツコツと真面目にに積み上げるという事以外にはないんだという風な実感が非常に強い。だからそういう点では、ごく普通の状態に戻るという事が仏道修行の中心であり、それの中心が坐禅だと、こういう事にもなろうと思うわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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