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正法眼蔵 現成公案 3

「現成公案」の巻、本文に入ります。
道元禅師がここでは、四諦(四つの考え方)を形を変えて表現されています。

この現実の世界を釈尊の説かれた教えを基準にして、どれが正しい、どれが間違いというふうに考えてみると、これが迷い、これが悟りと言う区別が出てくるし、修行をするとか、修行をしないとかと言う問題が出て来るし、生きているとか、死んでいるとかと言う区別が出てくるし、真実をつかんだ人とか、そうでない人とかと言う区別がある。これが最初の段階、苦諦の段階。

この現実の世界の一切を自己という主観を離れて眺めてみるならば、物があるに過ぎない。そこでは迷っているとか、迷っていないとかという精神的なものが入る余地がない。あの人は仏(真実を得た人)、あの人は仏ではない(凡夫)という区別もない。生きているとか死んでいるとかと言う区別もない。人間が生きていると言ってみても物質が動いているに過ぎない。死んだ人も今まであった物体が解体したにすぎない。死も生もあまり違いはない。これが集諦の考え方。

仏道とは具体的なこの日常生活において、人間が何をするかということが大切という考え方。とにかく一所懸命現在の瞬間を生きていくというのが仏道の世界。あの人は金持ちだとか、あの人は貧乏だとか分け隔てをしている余裕のある世界ではない。そういう豊かだとか乏しいとかと言うものを超越しているのであるから、そんなものは何もないかと言うと、その日常生活の中では生きるとか死ぬとか、迷うとか悟るとか、普通の人間とか、真実を得た人とかというものが、単に頭の中で考えられた状態ではなしに現実にある。頭の中で考えれば、そんなものはないとも言えるしあるとも言えるけれども、日常生活の現実においては悩みなどないといくら自分に言い聞かせても、ないはずの悩みがあり、ないはずの悲しみがある。これが現実の世界、滅諦の世界。

日常生活の具体的な生活の実体がつかめると、必ずしも迷っている必要はない。現実というものは明々白々として、疑いようのない世界として実在している。桜が咲いて、みんなで酒を酌み交わし歌を唄って花見をする。しかし何日か経つと花びらが散る、それも決してつまらないことではない。そのうちに若葉が繁ってきて夏が来る。この様に、この現実の世界の移り変わりと言うものは実に素晴らしい。それと同時に刈っても刈っても空き地の草は生えてくる。夏になると暑くてしょうがない。暑い暑いと言っているうちにやがて秋がきて冬が来る。いくら厚着をしても、寒くてしょうがないという事で、この世の中は必ずしもいいことばかりではない。良いこともあり、悪いこともあるのが宇宙の現実であり、そういう現実に徹して現実そのものを直視するというのが仏道である。現実そのものがそのまま見えるようになった世界が道諦の世界である。

西嶋先生の解説
「現成公案」の巻の一番最初でこの仏道の基本的な原則である四つの考え方を道元禅師のお立場から述べられたものと理解することが出来る。つまり、法と言うものを考えていく上においては、この四段階の考え方をしなければならないということを、一番最初に前置きとして述べられたわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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