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正法眼蔵 現成公案 2

現成公案の巻、本文に入る前の西嶋先生の話はまだ続きます。

「現成公案」本文は、原始仏教で唱えられていた四諦という考え方と非常に関係があるので、本文に入る前に話しておきたいと思います。この四諦は釈尊が生きておられた時代に説かれた教え(原始仏教)で、釈尊は非常に大切な仏教の考え方の一つとして何回も説かれている。四諦の諦は「あきらめる」と言う事。断念すると言う意味ではなく「はっきりさせる・明らかにする」と言う意味です。この世の中を考えていく場合に、四段階の考え方で考えていくべきだと主張します。
   
苦諦(自分の思いどうりにならない苦の世界) 
我々は心の中に理想を持っていて、こうしたい、ああしたい、こうしなければならん、ああしなければならんと言う考え方が、山ほど頭の中に詰まっている。そういう理想が頭の中に詰まっておると、現実の世界を見ると、中々そういう理想通りにはいかない。自分がもっと頭がよければいいと思っても、中々そうはいかない。毎日、本を百ペ-ジ読みたいと思っても、中々そうはいかない。酒はなるべく飲むまいと頑張っても、ついつい飲んでしまう。タバコを止めようと思っても、ついつい吸つてしまう。この様に、こうしたい、ああしたいという色々な願いや思いが、その通りにならないというのが我々の日常生活。そういう生活の実状を釈尊は苦諦と言う捉え方で考えた。つまりこ自分の思い通りにならないという実情、それが苦の世界。だからこの苦の原因になっているのは、ああしたい、こうしたいと言う自分自身が持っている理想とか願望を基準にした考え方。

ところが、自分の頭の中で考えた理想というものを、一所懸命実現しようと思って努力すると現実というものが身にしみてわってくる。「どうも思い通りにならないのが現実だ」と言う事が、経験として間もなくわかって来る。

集諦(物事を物質的に考える物の世界)
この世の中というものは、物質的なものの集まりで原子とか分子とかそういう細かい微粒子の集まりで出来上がっている。原因・結果の関係の集積に縛られている。だから人間が良心的に一所懸命に努力するよりも現実がどうなっていて、どう言う事しか出来ないかと言う現実そのものをよく見ると言う点では優れているけれども、人間の努力というものにあまり信頼を置かない。「どうせなる様にしかならない」という考え方。

ところが、こういう考え方だけで人間が満足して、じぁ、もう諦めようということで、どうせ頑張ってもしょうがないから、出来るだけずるく立ち回って楽をしようと言う生き方に満足できるかと言うと中々そうはいかない。そういう考え方に徹して生きていこうと思っても、どうも生き甲斐がない。張り切って一所懸命やった時は、失敗してもなんでも、とにかく生きている喜びがあった。どうせ何でも駄目なんだからということで、狡く楽に楽にと生きる様になったら、生きている張り合いがなくなってしまうというのが人間の実情。そうすると、理想に燃えて一所懸命やると現実にぶつかって怪我ばかりする。どうせダメだからと言って諦めると生き甲斐がなくなってしまう。これが人間の普通の社会で行われている二つの代表的な考え方。大体この二つのどっちかを頼りにして、ほとんどの人は一生を終わってしまう。この二種類の考え方の人を仏教では凡夫という。釈尊は人間というものは、この二つの生き方では幸福を感じ得ないと言う事に気ずかれた。理想を一所懸命追求しながら、しかも現実と調和していく生き方がどこかにないかと修行されて、その結果釈尊が気づかれたことが次の滅諦です
 
滅諦(行いの世界)
人間が生きがいを感じ人生に意味をもたらすところのものは、何をするかと言う事とどういう行動をするかと言う事が大切だということ。目の前の事に一所懸命に行動し没頭して生きるということ。物事を考えれば考えるほど人生問題が複雑になってしまうという場合もある。もうややこしい事は考えまい、美味しいものを食べて、着たいものを着て、のんびり生きていこうと言うことでは、人生の意味がどこにあるかわからなくなり幸福とは感じることが出来ない。人間が幸福を感じるためには、自分のやりたいと思う事を一所懸命にやってしかもそれを実現する事である。行動をして一所懸命に生きると言う事が、人生の意味をもたらすわけです。しかし、単純にそのまま問題解決になるかというとそうはいかない。実際に行動するという事は非常に難しい。自分がものを考えていると言う事は、それが間違っていようと、間違っていまいと自分にもそう害を与えないし、他人にもそう害を与えない。しかし、実際に行動すると言う事になると、それがまずければ自分自身が被害を受ける、また他人に害を与える事もある。では、実際に日常生活で積極的に行動しながら、しかも自分も傷つかない、人にも傷を与えないと言う生き方はどうしたらいいかという問題になる。釈尊が説かれた事は、人間が本来の状態に立ち返ったところでやる行動というものは、自分自身も傷つけないし、人にも迷惑を与えない。なぜかと言うと、我々は「法」という現実の世界の中に生きている。その「法の世界」を支配している原則というものを自分自身が身につけて、その原則に従って生きるならば、自分も満足を感じ得るし人にも迷惑をかけない。そして、自分にも人にも幸福を与えることができる。そう言う事に気ずかれた
 
道諦(坐禅の世界)
人間が幸福になるためには、自分の本来の状態に戻らなければならない。本来の状態に戻る修行法として、釈尊は坐禅を考えられた。

したがって釈尊は、この四諦と言う考え方で、人間と言うものはまず頭の中で考えて、ああしたい、こうしたいということを考える。ただその次にはどっこいそうはいかない、この現実はいろんな因果関係(原因・結果)の関係があって束縛されている。だからその束縛と言うものをよく勉強してみなきゃならん。そうでないと、自分の考えにに引きづり回されて失敗ばかりする、怪我ばかりするということになりかねない。そういう客観的な情勢をよく見たうえで自分が積極的に日常生活を生きるということ。これが人生の意味だ。ただ日常生活を積極的に生きて、しかも間違いがないということ、自分が不幸にならない、人にも不幸を与えないということのためには、本源に戻らなきゃならない。その本源に戻る修行法が坐禅だと、こういう考え方をされたわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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