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正法眼蔵 現成公案 1

「現成公案」の巻、本文に入る前に西嶋先生のお話です。

本文に入る前に仏教に関する基本的な問題を二、三述べておきますと、まず第一に仏教が大切にしているものが三つある。これを普通、三つの宝と言っております。三つの宝とは何かというと、仏・法・僧の三つで、それぞれの下に「宝」という字をつけて仏宝・法宝・僧宝という。

まず最初の仏宝とは何かというと、仏(ほとけ)と言う言葉。仏とは何かというと一番具体的なものは釈尊。二千数百年前にインドに生れて仏教を今日に残された。だから仏教があるのは全く釈尊の御蔭ということで、釈尊を仏教では非常に大切にする。ただ仏というのは単に釈尊だけの意味ではなくて、釈尊の考えを信じて、それを実行し、釈尊と同じような境地に到達した人を全部仏という。達磨大師も仏、大艦慧能禅師も仏、道元禅師も仏、ここに集まっておられる皆さんも坐禅をしている時はそれぞれ仏になっていたと考えていい。この仏(人間として完成された姿)を大切にする。

次の法宝とは何か。法と言うのは何かというと、それは今日の言葉でいうと我々の住んでいる世界。この我々の住んでいる世界と言うものを法と言う言葉で仏教は表して、これも非常に尊重する。普通我々がこの生きている世の中を眺める場合に三つの眺め方がある。

一つは、この世の中はうまくできていないという見方がある。我々が頭の中で考えて、こうなければならん、ああなければならんという理想があるわけだけれども、その理想に引き比べるとこの世の中は甚だ具合が悪い。人間には、正しいとか正しくないという事があるけれども、この世の中には決して正しい人間ばかりいない。またきれいとか汚いとかという問題もある。山奥に行ってきれいな谷川を見れば、きれいだということもいえるけれども、都会の様にたくさんの人が住んでいて、工場の排水が出たりと言う様な川では決してきれいとは言えない。
だからこの世の中というのは、きれいなものもあれば汚いものもある。そういう点では、頭の中で考えて全部きれいであればいいと考えても、中々そう思う通りにはいかない。この様に、頭の中でこうありたい、ああありたいという事を中心にして、この世の中はどうもそういう理想に比べると必ずしも望ましい世界ではないという考え方がある。

それからもう一つの別の考え方は、この世の中の価値のあるもの、あるいは精神的なものは、全部本当にこの世の中にあるのではないというふうに考えて、この世の中の実際にあるものは、物質的なモノだと限定してしまう考え方がある。そういう考え方からすると、この世の中は単に分子とか原子とかという微粒子の集まりだという考え方がある。原因・結果の関係で出来上がっている。食べ物を考えるにしても、美味しいとか美味しくないとかという事は二の次にして、カロリ―がどのくらいあるかという事を考える。だから家庭でゆっくり落ち着いて食べる食事と、駅の立ち食いそば屋で立って食べるそばと、カロリ-の量が違わなければ食物としては値打ちは同じだという考え方をする。そういう考え方でこの世の中一切を見ていくという生き方もある。そうすると物質だけがこの世の中を組成している実在で、あとのものは人間の頭の中で考えた架空のものだという考え方をする向きがある。これは今日の言葉でいえば、唯物論とか物質主義とかという考え方。これも代表的な考え方で、世の中には非常に多い。

ところがもう一つ、仏教というのは別の考え方をする。それはどういう考え方をするかというと、まず我々の住んでいるこの現実の世界を絶対の実在として認めるわけです。それが見方によって理想的な面からも眺めることができるし、物質的な面からも眺められる。だからこの世の中は、精神的なきれいなものだけではない。また物質的な味もそっけもないものだけではない。もっと潤いのある、もっと丸みのある、非常に尊い調和のとれた実在だという考え方をする。そういう実在を「法」と呼ぶわけです。これを法宝と言って非常に大切にする。

それから三番目の僧宝とは何かというと、釈尊以来、仏教を信じる人々が団体を作って一所懸命仏教を勉強してきた。その団体には、俗世間を離れた男(僧侶)と女(尼僧)とがある。それから出家しないで在家で仏道を勉強している人にも男と女がある。この四種類の人々が作っている団体を僧と言うわけです。サンガと言うのがインドにおける言葉のもとの音であるけれども、それを中国では僧伽と言う字に代表させて、その団体を僧と呼びならわした。この仏道を一所懸命勉強する四種類の人々も僧宝ということで大切にする。

この様に仏・法・僧という三つのものを最高の価値として考えるのが仏教における一つの考え方。今日やるところ「現成公案」と言う巻は、この二番目の法と関係している。我々の住んでいる現実の世界が一体どういう世界かという事を説いておられるのが、この「現成公案」の巻。まず、表題の「現成公案」という言葉を考えてみると、現成とは、現になるという事で、すでに現実に出来上がっているという意味。それから公案とは、公府の安牘という言葉が略されたものと昔から言われています。公府の安牘とは、役所のお触書という意味です。

だから公府の安牘とは、今日でいえば法律と同じ様な意味です。先ほど述べた法宝とは、この世の現実の世界という意味と同時にこの世の中を支配している決まり、規則という意味もある。この世の中を支配している決まり、規則を勉強するという事が仏道修行の一つの中心です。現に我々の目の前にあるこの宇宙というもの、我々が住んでいる世界というもの、それがどういう様子をしているかというのがこの「現成公案」の巻の狙いとするところです。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師によれば、死ねばもう死ではなくなるということでございますよね。一般的な宗教は、浄土宗でも、臨済宗でも、死後の世界は極楽だと言っている。どうして現在はそういう死後の世界と言うものが仏教の一般論として横行してしまったんでしょうか。

先生
結局、原始仏教の時代に、釈尊が説かれた教えは「正法眼蔵」に説かれている教えと同じだったというふうに理解していいと思う。ただ釈尊が亡くなってから、弟子たちが集まって経典をつくった。経典と言うものが文字に表された。今度は仏教を勉強する人がその文字によって仏教を理解しようとした、そうすると、その実体と言うのはどっかに行ってしまって、理屈の上で仏教はこうというふうな理解が進んでいった。

そういうことから仏教に対する抽象的な理解の仕方が出て、それが時代を経るに従って、なかなか釈尊の原始仏教で説かれた教えと言うものがよくわからなくなってしまった時代には、こうでなかろうか、ああでなかろうかと、たくさんの人が出て、たくさんの意見を述べた。その一つが、たとえば浄土教の様な教えだというふうに見ていいと思う。それが中国に伝わり、それが日本にも伝わって来たということが事実だと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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