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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 11

「摩訶般若波羅蜜」の巻は続きます。

釈尊が言われた。

舎利子よ。
一切の生物はこの真理への過程である正しい智慧に住することに関し、釈尊が住まわれたと同じようにするべきである。また正しい智慧を供養し、尊敬礼拝し、思念することも、釈尊を供養し、尊敬礼拝し、思念すると同じようにせよ。正しい智慧は釈尊と全く同一であり、釈尊はこの正しい智慧と全く同一だからである。正しい智慧とは、釈尊そのものに他ならない。釈尊は、正しい智慧に他ならない。したがってこの我々の住んでいる宇宙全体が正しい智慧そのもであるとするならば、我々の住んでいる宇宙全体が釈尊そのものと異ならない。

なぜかというと、舎利子よ。
すべての真実を体得された方々が持っていた正しい均衡のとれた悟りとは、正しい智慧によってのみ生まれる。しかも、この正しい智慧とは、坐禅をやっている時の心境、坐禅をやっている時の状態という事であるとすれば、仏というものも坐禅から生まれ、悟りというものも坐禅から生まれる、坐禅そのものが悟りだという事にならざるを得ない。

舎利子よ。
また、菩薩摩訶薩(行いによって真実を得る人)・独覚(感覚によって真実を得る人)・阿羅漢・不還・一来・預流(思惟によって真実を得る人)等は皆、真理の過程である正しい智慧というものを基礎にして出現する。

舎利子よ。
一切の俗世間における善行(仏道において善行として挙げられる十種類)・四静慮(物質世界における四段階の禅定)・四無色定(精神世界における四段階の禅定)・五神通(天眼通・天耳通・他神通・宿命通・如意通)という普通の人間では中々到達できないような優れた能力も、すべて正しい智慧というものを基にして出現する。

釈尊の言葉について道元禅師の注釈です。
したがってこのような記述から考えていくと、釈尊や真実を得られた方々はいずれも正しい智慧そのものである。正しい智慧は何であるかというと、我々が住んでいる現実世界そのものが正しい智慧そのものである。この我々が住んでいる宇宙というもの、現実の世界というものは何かというと、何らかのものを感じることはできるけれども、言葉でそれを説明しようとしても説明できない世界である。

それは過去になかったものが今生まれてきたという事ではない。永遠の過去からずっと続いている、それがいつか無くなっていくというものでもない。現に存在し、また今後も存在するという性格のものである。この我々の住んでいる世界とは、清いとか汚れているとかという定義づけが出来ないほど、現実の絶対の世界である。人間の思惑を超えて厳然として存在するものが、この我々の住んでいる世界である。この現実の宇宙というものは、言葉では表現できない。

この正しい智慧が現実のものとして自分自身の智慧としてわが身についたという事は釈尊そのものが出現したことである。自分自身が釈尊になったという事と同じことである。その境地というものを大いに探求し参究してみる必要があるし、その境地に自分自身で入り込む必要がある。この様な形で正しい智慧に供物を捧げ礼拝するという事は、釈尊そのものにお仕えするのと全く同じ意味である。釈尊にお仕えするという形において、自分自身が釈尊と全く同じになったという事に他ならない。

             「正法眼蔵摩訶般若波羅蜜」 
             1233年 夏安居
             観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。
             1243年 旧暦春3月21日、これを書き写した。 懐弉




              ―西嶋先生にある人が質問した-

質問
写経なんてことを夢中でやりますね、それは道元禅師はどうおっしゃっているんでしょうか。

先生
道元禅師は写経と言う様な事を言っておられますし、経典にもしきりに書いてある事なんだすね。このお経を写せば、ということなんですけれども、仏道修行と言う面から言えば、お習字が決して悪いことではないということと同じ意味だと思います。書いてある内容がどういうということで、非常に意味があるとか、ないとかということじゃなくて、お習字の意味があると同じ程度の写経も意味があるということ。だから「ああいうことは無駄だからやめなさい」と言う様な事は言わないけれども、宗教的な意味からすれば、筆で字を書いていくことにどの程度の意味があるかということになると、あまり信用しすぎてむしろ間違いになるということじゃないかと思います。


質問
仏道修行を志す人の中には、過去の自分の犯した罪業を懺悔したいと言う気持ちで入る方も多々あるように思うのですが・・・。その点いかがでございましょうか。

先生
過去の罪から逃れたいと言う事で仏道に入るという事は、決して不純な行動ではないです。だからそう言う形で仏道修行に入る方がいても、決して否定すべき事ではないし大変結構な事だという事は言えると思います。それと同時に、我々の生きている人生と言うのは、現在しか生きる場所がないと言う事、これも非常にはっきりしておる。だから過去に戻って、それを修正するためにという事は絶対出来ない。「今、今」と言う事で、どの様な人にとっても与えられた現在を一所懸命に生きる以外に生き方はないと言う事です。

これも釈尊の説かれた教えと言う事が言えると思います。過去において悪い事をしたといったって、それについてクヨクヨしていてもどうにもならんと言う事。過去における結果が、来ないように来ないようにと逃げ回っていても、絶対に来ると言う事。これもはっきりしている。そう言う前提に立ちながら、今を一所懸命に生きる事が仏道だと言う事だと思います。

質問
仏縁に触れる人はそれぞれの立場において、懺悔心と言うものが大なり小なり心の奥底にあるんではないんですか。

先生
悪い事をしなくても、本当のことが知りたいと言う気持ちがあるわけですよね。そういう動機の人も沢山いると思う。「自分は悪い事をしちゃったから、せめて仏道に入って」と言う人だけではなしに、自分はこれと言って悪い事をした記憶もないけれども、とにかく本当の事が知りたいと仏道修行を始める人は沢山いると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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