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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 9

「摩訶般若波羅蜜」の巻は続きます。

帝釈天が釈尊に申しあげて言う。
世尊よ、仏教を信じる男女が、今この経典において説かれている深い真実に到達するための正しい智慧というものを受け取り経典に説かれた理論に従って物事を考え、他の人のために経典の趣旨を演説するという事をやった場合に、それらの人々を自分はどのようにして守ることをしたならばよろしいでしょうか。お慈悲を持ってお教えくださるよう、ただただお願いいたします。

その時、善現長老が帝釈天に向かって言う。
帝釈天よ、お前は守らなければならない宇宙を支配している秩序を、見ることが出来るかどうか。

帝釈天言う。
私はこの宇宙を支配している秩序で、我々が守らなくてはならないと思われるものがあるかどうか、それをこの眼で見ることはできません。

善現長老が言う。
仏教を信じている男女が、この経典に書かれているような意味の深い真の智慧というものに自分自身をおくならば、つまり坐禅をやってその境地に自分の身を置き、その体験を日常生活に生かしていくならば、正しい智慧というものから決して離れることがなく、正しい智慧そのものを守るという事の唯一の具体的な形である。この様な正しい智慧の状態に自分自身をおいておくならば、周囲からどんな手段をめぐらして災いや損害を与えられようとも、決して被害は受けない。帝釈天よ、正しい智慧に我が身をおくという事は特別の事ではない。ごく普通の自分自身のあたり前の状態に我が身をおくという事が、正しい智慧に我が身をおくという事であり、空間を守るという事の意味に他ならない。

※帝釈天と言うのは、インドにおける昔からあった神様の名前であるけれども、仏教が盛んになると、仏教の守護神と言う立場で扱われた神様。

善現長老と帝釈天の問答について道元禅師の注釈です。
したがってこの様なところから考えてみると、般若の経典を持ち、それを読み、またその般若の経典が教えているところの理論に従ってものを考えるということが、正しい智慧を自分のものとして保持しているということの意味である。そしてまた正しい智慧を守ろうとすることは、経典を保持し、また経典を読むことに他ならない。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「静慮」・「禅定」・「禅那」と言う言葉を、先生は「間脳を調節して身心を安定させること」と解釈しておられますが、これは中国に禅が伝えられた時からすでにこういった事実はもうわかっておったのですか。

先生
いや、それはわかっておりません。結局、釈尊の時代から、何か我々の体の状態が一つの調和した状態になることがある。それが仏道哲学の出発点だという意識はインドにもあったし、中国にもあったわけです。ただそれが何であるかということがはっきり具体的には説明されておらんわけです。「等」とか「定」とかと言う言葉で表現されておるから、何か二つの力がバランスしている状態だとか、あるいは安定した状態だとかというふうな説明はありますけれども、それが具体的に何であるかと言うことについては、インドでも、中国でも、日本でも、説明はなかったわけです。

ただ我々の時代と言うのは、理屈を抜きにして、とにかく有り難いんだということでは治まりのつかん時代。だからそうすると、そういう仏教の主張に対しても、それが今の科学の立場、学問の立場から見て何なんだ、今の医学の立場から見て何なんだという詰めをしなきゃならんということだと思う。その場合に私が参考にしたのは、アメリカの心理学者でカ-ル・メニンジャ-と言う人がいるんです。

それでこの人が、我々の心理作用と言うものは二つの要素がバランスした時に一番正しい状態だと。そのバランスのコントロ-ルの中心になっておるのが間脳なんです。だから間脳の働きによって我々の自律神経がバランスした時、それが仏教で二千数百年以上前から主張されてきたところの「等」とか「定」とかと言うものと同じものだというのが私の見方。

だから私はそういう捉え方で、現代の医学とか心理学とかと言うものとの関係から見れば、間脳の調整ということもできる。間脳の調整ということは、別の言葉でいえば自律神経がバランスしているということ。自律神経は二種類あるわけです。二種類の神経がバランスしておるということが、「定」・「静慮」と言うものの意味だと。それが古来から我々の日常の基準とされておったものだと、そういう理解の仕方ですね。

質問
そうしますと、先生の「坐禅のやり方」と言うご本も拝見させていただいているんですが、その本の8ぺ-ジ9ペ-ジにわたりまして、間脳を調整するまず第一段階としては、正身端坐することだ、そうすると間脳が調整されてくるとありますが・・・・。

先生
そうです。体を正しくすれば自然に間脳が調節される、自律神経もバランスする、それからホルモンの分泌も正常になると。だから体を正しくするということが心を正しくすることでもあると、そういう基本的な考え方があるわけですよね。それでそういう考え方をしませんと、仏道そのものが今日に生きてこないんです。そういう問題を曖昧にしておいて、「まあ、有り難いから信じろ」ということでは、日本の中でも今日説明を十分聞いてくれるという形になりませんし、まして世界に対して説明する場合には、「それは何なんだ」と言われたときに、「それはこういう体の状態が基礎になってるんだ」と言う説明がなければ、今日は理論として生きてこないわけですね。だからそういう点では、仏教と言うものもやはりそういう自然科学的な立場も踏まえて理解せざるを得ないと、そういうことだと思うんです。


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475:管理人のみ閲覧できます by on 2015/09/18 at 10:05:09

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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