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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 8

「摩訶般若波羅蜜」の巻は続きます。

帝釈天が善現長老に質問していう。
仏道を一所懸命に勉強しようとする人々が、非常に意味の深い真実に到達するための正しい智慧というものを学ぼうとするならば、どのような学び方をしたらよろいでしょうか。

善現長老答えて言う。
この我々が住んでいる空間を勉強するのと同じように学んだらよろしい。

※帝釈天と言うのは、インドにおける昔からあった神様の名前であるけれども、仏教が盛んになると仏教の守護神と言う立場で扱われた神様。

善現長老と帝釈天の問答について道元禅師の注釈です。
この言葉から見ると、正しい智慧を学ぶという事は空間を学ぶ事と同一であり、空間を学ぶという事は正しい智慧を学ぶという事に他ならない。

西嶋先生の解説  
この空間を勉強するというのが、我々の常識からするとなかなか理解しにくいし捉えにくい。だから具体的に言うならば、先ほどやっていた坐禅を思い出せばいい。坐禅をやって何をやっていたかというと、空間を勉強していたという事もできる。一人一人が足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしていた、その時に感じられるものは、自分自身が坐っているという事実。どういうところに坐っているかというと、空気の中に坐っている。この部屋に坐っている。
  
この場所だけが唯一の場所ではなくて、その外には道路もある、車も走っている。今住んでいる地域があって、日本国という地域があって、日本国と言えども、地球という大きな球のほんの小さな豆粒のような島にしか過ぎない。地球がそうした大きさのものであるけれども、そういう地球よりもさらに大きな太陽を中心にして、地球はグルグルとまわっている。そういう関係は我々は科学知識によって勉強した。普通は我々はそういう事を感じない。しかしそういう世界に住んでいると同時に、我々の住んでいる世界はそういう太陽系と言うふうな世界だけの中に住んでいるわけではない。
  
そういう太陽系と同じような大きさのものが無数に存在して、そういう無数の太陽系と同じような大きさのものがグルグル、グルグルと渦巻を作って回っている世界に我々は住んでいる。これは単なる想像ではなしに、天文学者が色々と計算をした結果、どうもそういう事だという事になっている。だから、我々はそういう膨大な、大きな世界の中に住んでいるわけ。我々は普通、自分自身を中心にしてものを考えたり、家庭を中心にものを考えたり、自分の会社、自分の国を中心に物事を考えているけれども、本質的に考えれば、自分自身がたった一人でこの大きな宇宙の中にいるという事も間違いのない事実。
 
釈尊が生まれてすぐに、七歩ほど歩かれて「天上天下唯我独尊」と言われたという。これはおそらく伝説であるから事実ではあるまいと思えるけれども、「天上天下唯我独尊」というのは単に釈尊だけの問題ではない。我々自身が全部「天上天下唯我独尊」。Aという人は、他のどこを見つけまわってももう一人いるという事ではない。Bという人についても、Cという人についても同じこと。そうなると自分自身を振り返ってみれば、たった一人、誰でもたった一人、この膨大な宇宙の中に生きている。 これは不思議なことです。普段は不思議とも何とも考えない、ご飯を食べたり、仕事をして忙しいから、普段はそんなことは考えない。
  
しかしながら、この人生を本質的に考えてみると、どこにもいないたった一人の自分というものが、膨大な宇宙の中に生きているという事実、これは疑いようがない。そういう本源的な事実を勉強するのが坐禅の狙い。たった一人で足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしている、その時の自分自身というものが感じられると同時に、それを取り巻いている膨大な宇宙というものが感じられる。それが我々の人生の本源的な事実。そういう人生の本源的事実に普段は気が付かない。
  
大抵の人はそういうものに気がつかないで一生を終わってしまうんだ。「ああ、儲かった、儲かった」と思ってて喜んでいる時もあるし、「ああ損した、ああ損した」と言って悲しんでいる時もあるし、「結婚出来てうれしかった」と思っていることがあると思うと、たちまち喧嘩して「別れたい!」と言う様なこともあり得るし、そうかと思うと「また一緒になりましょう」と言う様な人もあるし、人生というのは様々。いいことがあるかと思うと、悪いことがある、悪いことがあるかと思うといいことがあるんです。そういう波乱の多い生活の基準というのは何かというと、自分自身が何かという事をつかんだ時に、人生の本当の意味が解かる。
  
だから坐禅によって何をやるかと言えば、人生の本当の意味を味わうという事にならざるを得ない。そのことをここでは、空間を学ぶという。虚空を学ぶという。空間というのは何か、言葉で説明することは難しい。机も、座ぶとんも、畳も、柱も、電車も、車も、全部ひっくるめたところが空間。そういうものの全体を学ぶことが坐禅の狙い。仏道修行の狙いという事になるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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