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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 7

「摩訶般若波羅密」の巻は続きます。

釈尊の指導していた仏教教団の中に、一人の僧侶があり、ひそかに次のように考えた。
私はまさに、非常に深い意味を持った正しい智慧という、真実に到達するための方法というものを、敬い礼拝しようと思う。この正しい智慧の中においては、我々の住んでいる宇宙というものは、生じたり滅したりと言う事がない永劫のものだと言われておりながら、しかも戒律一般・身心の安定均衡一般・理知一般・惑いからの離脱一般・認識世界観一般と言う、理解可能な教えがある。

また、仏道修行者が最初の段階である預流果・一来果・不還果・阿羅漢果に到達するまで、いずれも仏道修行が積もっていく過程によって得られるところの成果があると言う、理解可能な教えがある。

また、一人で山の中に入って仏道修行をして、自然に真実を得られる究極のものがあると言う、理解可能な教えがある。

また、最高かつ均衡のとれた正しい真実という、理解可能な教えがある。

また、仏(真実を得て、釈尊と同じような状態になった人)・法(我々が住んでいる宇宙)・僧(釈尊の教えを得ようと一所懸命に努力している人々)という、三つの最高の価値があるという、理解可能な教えがある。

また、釈尊が説法されて、一切の生物を救済するという、理解可能な教えがある。

釈尊は弟子の考えを察知されて、その僧侶に言った。
お前の考えている通りだ。この法とは永遠のものであるけれども、頭の中で考えれば、個々の様々な細かい教えがある。しかも、深い正しい智慧というものは、非常にきめの細かいものであって、頭で推察しようとして、なかなか推察仕切れるものではない。
                         
釈尊と僧侶の問答について道元禅師の注釈です。
一人の僧侶が「ひそかにこう考えた」と言うその事態とは、この宇宙に対して敬虔な気持で礼拝するという状態が生まれてきたということである。この様にまさに、敬意を持ち礼拝しているその瞬間こそ、初めて理解することの可能な教えとしての正しい智慧が現実のものになったのである。つまりこの僧侶が、この世の中は、生起したり消滅したりすることのない永遠のものだと感じたことが正しい智慧そのものであり、またその中で個々の考え方があると感じたことも正しい智慧である。

戒・定・慧等々から、一切の生物を救済するまでの、それらすべてもまた正しい智慧に他ならない。この様に細かい考え方もあるけれども、それらを全部まとめて突き詰めていけば「無」である。したがって「無」という考え方は、今ここで説明した通りに理解が可能でありながら、しかも「無」である。釈尊が説かれた教えを「般若経」によって様々に詳しく説いているのであるけれども、究極は何かという事をたった一つの言葉で表すならば、「無」という言葉で表現する事もできる。しかもその捉え方というものが、非常に意味の深くまた非常にきめの細かい、人間の頭では中々読み取ることのできないところの正しい智慧というものに他ならない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「無」というのはどういう事か、もっとご説明いただきたい。

先生 
最初のところで一人の僧侶が、この我々の住んでいる宇宙は永遠のものであるけれども、その中には様々な細かい智慧というものが沢山ある、それを別の言葉で言えば、我々には色々な言葉があってその言葉を使って色々に、細かく、複雑に、分析的に捉えることもできる。ただ、それはもの考える立場からの問題であって、現実に生きるという立場から見直すと、一切が無だという立場も取れる。その一切が無だという立場が、仏教における般若というものの一つの意味であるという事を言っている。

質問
そうすると、最初のパラグラフでは、般若というものをどういう概念で捉えることが出来るかという事を説明されて、そこでこのパラグラフでは、それを無として捉えることが出来る、という事を言われたわけですか。

先生
そう、そう。だから逆の言葉で言えば、よく「無、無」と言って、何にもないことを一所懸命求めて歩くような考え方があるけれども、仏道とはそういうものではない。「無」とは何かと言えば、中身のはっきりあるもの。色々と智慧を働かせて、いろんな言葉を使って、「こうか、ああか」と考えなければならないのが現実。だからそういう点では、そういうものを考えるという事を否定しているわけではない。ただそういう考え方に引きずり回されていると、考え倒れになってしまって迷いが一層深くなる。だから日常生活を生きていくためには、そういう考え方を全部乗り越えて、一切が無だという事、これも非常に大切な智慧だと、そういう事を言っておられる。だから細かく考える事と、それを全部帳消しにすることと、両方が智慧の中身だという事を言っておられると、そういうふうに理解してもいいわけです。

質問
「無」を英訳される場合には・・・・。

先生
サムシング・ライク・ナッシング(something like nothing)という言葉を、私は使おうと思っています。それは「何もないというふうにも捉える事の出来る何か」という意味ですが、いろいろ訳語を考えてみて、サムシング・ライク・ナッシングという言葉が適当ではなかろうかというふうに今は考えていますがね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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