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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 5

「摩訶般若波羅密」の巻は続きます。

また六つの正しい智慧がある。 六つの正しい智慧とは何かというと、布施、浄戒・安忍・精進・靜慮・般若という六つの考え方である。

※西嶋先生解説。
布施(人に物をやること、欲張らないこと)
人間が普通の体の状態、心の状態の時には、人に対して物をやろうという気持ちが強く出てくる。ところが多少調子が狂っていると何でもかんでも欲しい、人の物もすきがあったら取ろうという考え方で一所懸命やる。卑近な言葉であんまり品のいい言葉ではないけれども、「あわてる乞食はもらいが少ない」という言葉がある。これは我々人間の現実を非常によく表現している言葉でもあろうかと思う。乞食は最近少なくなったけれども、昔は浅草の観音様などへ行くと、参詣者からお金をもらって暮らしているのが沢山いた。ただそういう社会の最低の生き方をしていても、ガツガツしていると人が物をやりたくないという面がある。そういう点からすると、「あわてる乞食はもらいが少ない」というのは、非常に品の悪い言葉ではあるけれども、我々の人生の実体をかなりよく表している言葉ではないか。

このことはおそらく商売という問題についても、あてはまる面があるのではないかと思う。自分の儲けだけを考えてガツガツしていれば、付き合っている方でも嫌になってくる。眉に唾でもつけてよほど警戒しないと、うまくやられてしまうんじゃないかという相手では、取引先としてもあんまりいい取引先ではない。逆にあそこのやることは信用が置ける、まず大丈夫だという安心感があれば、商売の付き合い相手としては非常に好ましいという問題があるのではなかろうか。そうすると商売も、あまりガツガツするよりは、信用を得るという事の方がかなり大切ではなかろうかという問題がある。「布施」というのはそういう事。自分で取り込むばかりではなく、人にも多少儲けを与えてやろうという落ち着いた考え方の方が正しい状態であり、その方が人生目的を遂げる上においてはむしろ優れているという考え方。

2・浄戒(戒律を守る)
仏教には昔から戒律というものがある。戒律とは、釈尊が仏教徒として生きていくために守らなければならない外枠を決められた。その外枠を守るという事。どんな戒律があるかというと、「人を殺してはいけない」「人のものを盗んではいけない」「嘘をついてはいけない」等々、我々人間が普通に守らなければならない幾つかの戒律を定めて「これは人間の行動の外枠だから、これだけは守りなさい」という戒律がある。

3・安忍(辛抱する)
我々は、人から悪口を言われたり、人から笑われたり、人に殴られたり、様々な面で感情的に高ぶることはいくらでもある。そういう腹が立ちそうになった時に、腹を立てずにじっと辛抱をするという事が「安忍」。これがどうして必要かというと、腹を立てれば自分の体の状態、心の状態そのものが乱れてしまう。そうすると、元来持っている正しい智慧も一遍にどこかへすっ飛んでしまう。そのことは、仏道修行には大きなマイナスだから、どんな場面に遭遇しどんな苦しいことがあっても、感情的にならないというのが「安忍」の意味。

4・精進(努力する)
我々は普通、努力するという性格もあるけれども、できれば楽をしたいという精神も多分に持っているわけです。「暑くちゃ、そう働けない」これはごもっともなこと。あるいは「金が少しできたら、まあ温泉にでも浸かってあまりせわしい気持ちになりたくない」と言う様なこともあるわけです。ただ我々は現に生きている以上、一所懸命努力して当たり前という世界に生きているわけ。ぶら-んとして、のんびりとして、とにかく生きていけるという世界には我々は生きていない。我々には人生として百年足らずの割り当てがあるだけ。その割り当てをどう使うかという事が、我々の人生の意味を決めるわけです。そうすると我々が現に生きているという事は、一所懸命努力しなければならないという状態に置かれているといっても間違いない。

5・静慮(坐禅)
坐禅をすることが、我々の体を整え、心を整える大事な修行だから坐禅を一所懸命にやるという事。

6・般若(智慧)
坐禅をやった時に具わるものが般若。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
布施と言うのは、犠牲が伴うものというものじゃないんですか。

先生
いや、普通そういう事を宗教では考えがちですけれども、自分のことを犠牲にして人にやることが布施という事ではない。こういう無理な考え方ではない。ただ、あんまりガツガツ自分の方に取り込むだけでは、本当のものは生まれてこないという考え方。だから、自分が欲しくて、欲しくてしょうがないんだけれども、泣きの涙で人にやりなさいと言う様な教えではない。

人間が普通の状態にあるときには、自分のものが余っていれば「どうぞ」と人にあげる余裕が出てくるし、また自分が欲しいと思っても、人が欲しがっていれば「どうぞお先に」という気持ちの余裕も出てくるものだという形が、仏道だという主張でしかないと思う。
だからたくさん有り余っておれば、自分の得たいと思うものをとるという事、これは当然なこと。だから何でもかんでも人にやってしまって、裸になれという教えでは決してない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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