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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 4

摩訶般若波羅密の巻は続きます。

また四つの正しい智慧がある。 四つの正しい智慧とは何かというと、苦諦・集諦・滅諦・道諦という四つの考え方である。

西嶋先生解説。
苦諦(仏教における第一段階の考え方)
苦しみの原因になっている考え方。 我々が「ああしたい、こうしたい」と思っている願望そのものが、苦しみの原因であると仏教では考える。 別の言葉で言えば理想主義、頭の中で「ああしたい、こうしたい」という理想をつくってその理想に向かって一所懸命努力するという考え方。 これは仏教だけではなしに、人間は、頭が少し発達してくると、「ああしたい、こうしたい」という知恵が出てくる。 その知恵を基礎にして一所懸命努力する。

だから、人間の努力の最初の形とは理想主義的な努力である。 色々な目的を求めて、「あれを実現しよう、これを実現しよう」という考え方が出てくる。 ただそういう考え方で努力していると、すぐ壁に突き当たる。 何の壁に突き当たるかというと、現実の壁に突き当たる。 「ああしたい、こうしたい」と一生懸命考えるわけだけれども、どっこいそうはうまくいかないという現実が我々を取り囲んでいる。 理想が高ければ高い程、願望が大きければ大きい程、我々は現実の壁に突き当たる。

そこで人間は少し利口になる。 中々思い通りにならないもんだな、と。 そうすると、我々の願望を中々遂げさててくれない現実というものを勉強するようになるわけです。 その現実を勉強するという事も非常に大切なこと。 どういう原因とどういう結果で、この世の中が成り立っているかという事を、勉強することも非常に大切なこと。 今日では西洋文明が発達していて、科学というものがある。 原因・結果をいろんな角度から頭で考えて調べていく、 この科学的な考え方が、人間の営みにとっては非常に大切。 現実を勉強するという事が、仏教を勉強していく上においての、第二段階の考え方。 その考え方を集諦という。

集諦(仏教における第二段階の考え方)
我々の住んでいる世界は、原因・結果の集まり、物質的な物の集まり、分子・原子という細かい物の集まりであるという考え方。そういう捉え方で現実というものを勉強していく事は非常に意味があるけれども、今度は動きが取れなくなってしまう。この世の中というのは、原因と結果で、もうすでに過去の原因によって現在は決まっている、現在によって未来は決まっているという事になれば人間の働く余地がない。

そうすると、人間は努力しても、努力しなくても、結果は同じだという考え方にならざるを得ない。だから「集諦」という考え方で、この世の中を勉強していくと利口にはなるけれども、あきらめを持たざるを得ないというところに落ち着いていく。「色々苦労してやってみたところで結果は同じだ、のんびりしていた方が得だよ」という事にならざるを得ない。そうすると生き甲斐がなくなる。そういう生き甲斐がなくなった状態で「まあ、とにかくどうにもならないんだから毎日でれでれしていよう」という事で、人間が生きていけるかと言うと中々そうはいかない。

人間というのは案外働き者、仕事がなくなって「もう一生遊んでもいいよ」と言われると「いや、何とかして仕事がしたいから」と、仕事を見つけまわるという事がある。そうすると、人間が何らかの仕事を一所懸命やりたいという性格を持っていることも事実。我々が自分自身の日常生活に目をつけて、「この世の中は思い通りにいかんかもしらん、もう昔の原因ではっきり決まっていて、どうにもならんかもしれないけれども、与えられた瞬間瞬間を一所懸命生きていこうという考え方が出てくる。

滅諦(仏教における第三段階の考え方)
瞬間瞬間を一所懸命生きていこうという考え方。一所懸命生きていくこと、これは非常に立派なことであるけれども、一つ困ったことは我々はそういう生き方をすると間違いを起こしやすい。一所懸命生きていくことはいいことであるけれども、どれが正しくて、どれが正しくないかという事が、よくわからない。だから無我夢中で行動していけば、自分も傷つくし人も傷つけるという恐れが多分にある。そうすると行動しながら、しかも間違いを起こさないためにはどうすればいいかという事が出てくる。そこで最後の段階の道諦という考え方に行く。

道諦(仏教における第四段階の考え方)
自分で一所懸命に行動しながら、しかも間違いを起こさないためにはどうすればいいかという最後の段階が出てくる。そこで釈尊が勧められたのが坐禅。坐禅をすることによって、自分の体と心を調整していけば、自然に間違いを起こさなくなるというのが釈尊の考え方であり仏教の考え方。だから道諦の立場とは、坐禅を一所懸命やりながら日常生活を送っていくという考え方に他ならない。この様に、「苦・集・滅・道」という四つの考え方を重ね合わせて、この宇宙を考え、我々の日常生活を考えていくというのが仏教思想の根本である。この四つの考え方は、仏教思想の根底に横たわる非常に大切な考え方である。


 
          ―西嶋先生に、ある人が質問した-

質問
講義の方はつけたりのもので、坐禅だけが大事だとは言い切れませんよね。

先生
ええ、それは両方必要だと言う事です。 と言うのは、人間と言うのはそういうものなんです。 つまり、坐禅だけをやっていて「理屈はどうでもいい」と言う事では人間満足できない。 理屈の方で「さてどうか」と言う事は非常に気になる。 「そんなものは、なくていいんだ」といくら言われたって、やっぱり勉強してみたいと言う事になる。 やっぱり仏教の本を読んでみたくなると思う。 それと同時に、今度は仏教書ばかり山のように積み上げて、片っ端から読んでみても、坐禅をやらないとわからんと言う事があるわけです。
頭ばかりクルクル、クルクル回っても、体が言う事をきかんと言う問題がある。 だから、坐禅をして体でも仏教がわかってくる。 「正法眼蔵」を読んで、頭でも仏教がわかってくる。 この両方が具わらないと、仏教と言うものはわからん。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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