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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 3

摩訶般若波羅密の巻は続きます。

而して「摩訶般若波羅密多心経」の中には、色即是空空即是色と言う言葉が出てくる。
色即是空「物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない」、空即是色「有でも無でもないものこそ物質世界そのものである」

物質の世界がないと思えば、「ない」と感じることもできると同時に「ない、ない」と無理に考えて見ても、やはり物質の世界が存在するという立場もあるけれども、もっと現実的に我々の日常生活に即して考えてみれば、物質世界は物質世界として厳然と存在しているし、ただ一生懸命やるだけだと言う立場に立てば一切が何もない。さらに具体的に考えるならば、この世の中にある個々のもの、たとえば机や畳や柱や体など目で見てあるという具体的なものがある。そういう世界の中に我々は生きているのであり、この世の中を抽象的に理屈だけで考えていたのでは、この世の中は中々つかまらない。それと同時に、そんなものはどうでもいいと投げてしまえば、やはりこの世の中はつかまらない。縦から横から、この現実の世界を眺めてみなければならないと言うのが釈尊の教えであり、その釈尊の教えこそは正しい智慧というものの実体である。

さらにその正しい智慧には、その他にもいろんな現れ方がある。十二個の正しい智慧というものがある。「眼、耳、鼻、舌、身・意」と言う具体的な捉え方をする。そういう感覚器官に対応して、その捉えることのできる対象とし「色・声・香・味・触・法」があり、さらに心の中身を捉えた「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」がある。これらを総合して十八個の正しい智慧と言う。



          ―西嶋先生にある人が質問した-

質問
坐禅が大事だという事は、はっきりわかります。行動が大事と言われますが、駄目な事をする行動も行動ですよね。駄目じゃない行動って坐禅の他に何があるんですか。

先生
坐禅から生まれる生き方、それを別の抽象的な言葉で言えば「法」に従った生き方と言う事でもある訳です。坐禅で何を勉強しているかと言えば「法」というものを勉強している。坐禅をやった結果「法」というものが身につく。その「法」に従って、寝たり、起きたり、ご飯を食べたり、服を着たりと言う事のすべてが「行仏」です。だから、単に坐禅だけでの問題ではない。同時に、坐禅から得られた正しさというものが基準になっているという関係だと思います。

質問
そうしますと、坐禅をやっている時には、完全な状態の行動であると。坐禅から出た行動は・・・。そこらが、聞いていてどうも気になって仕方がないんですがね。

先生
そこで、人間に対する信仰とか、この世の中の出来具合に対する信仰と言うものが問題になってくる訳です。人間に対するものの考え方としても、人間はほっておいたら出鱈目をやるか、人間は自然な形で静かにしていれば出鱈目はやらないかと言う、人間に対するものの考え方というものが、そこで問題になってくる訳です。

釈尊が説かれたのは「一切衆生悉有仏性」と言う思想からも推察が出来るように、我々人間は、素直に自然においておけば、決して悪い事はしないものだと言う信仰があるわけです。ところが我々は、小さい時から色々と結構な智恵をたくさん教えられているから、悪い事を自由自在にする様な力量を身につけるわけです。だから、坐禅によってもう一度本来の姿にかえっていくならば、無理に悪い事をしようとしない限り、悪い事をするはずがないと、そういう考え方が仏教信仰の基礎にあるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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