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正法眼蔵 摩訶般若波羅密 2

摩訶般若波羅蜜の巻、本文に入ります。

観自在菩薩が、正しい智慧の修行に打ち込んでいる時は、、体全体を正しい状態において、五蘊がすべて「空」であるということを直観している瞬間である。五蘊とは色・受・想・行・識・であり、五つの正しい智慧である。そして坐禅により、五蘊が「空」であると言う事を体全体で実感すること、これこそ正しい智慧である。

西嶋先生解説
観自在菩薩とはどういう仏様かと言うと、「法華経」の中に「観世音菩薩普門品」と言うのがあって、そこでは、観世音菩薩が人間の「苦しい、苦しい、助けてほしい」と言う願いを聞きつけて、その時の必要に応じた姿になって現れて、人間を助けてくれるという信仰が語られているわけです。そういう仏様が何を象徴しておるかということを考えてみると、人間の生命力、我々誰もが持っている生命力と言うものが、インドの信仰では観世音菩薩と言う形で語られておるという理解も成り立つわけです。

卑近な例でみると、我々が何か刃物で手を怪我したとする。そうすると血がどんどん流れてくるけれども、それによって傷の部分がばい菌の付着からある程度守られる。また血が空気中の酸素に触れると自然に固まる。そして血液が固まることによって外界からばい菌が入ることを防いでくれる。そのまま数日たってみると、かさぶたの下にどんどん肉が盛り上がっていて、新しい皮が出来ていつの間にか傷が治っておる。非常に卑近な事ではあるけれども、そういう点では我々の体は実にうまくできている。じつに精妙にできている。だから我々の生命と言うものは非常に恵まれた生涯、非常に素晴らしい世界の中で、非常に素晴らしい存在として生きつづけておるというのが実体。

だから偶々自分たちの生涯において非常に苦しいことが生まれても、かならずそれについては救済が伴うということ、これが仏道信仰。そういう救済と言うものが、生命の中に救済の要素としてそのまま入っておるという風に考えざるを得ない。我々が人間として生きておるということ自体によって、何らかの救済がすぐ我々を助けに来てくれるという事態そのものを示しているということに他ならない。そういう事実を中心にした信仰が観世音菩薩信仰。だから浅草の観音様にお参りして色々と願い事をするわけだけれども、そういう意味で観音菩薩信仰と言うものがあるわけです。

五蘊(色・受・想・行・識)と言うのは、我々の住んでいる世界は、一つの見方からすれば(物質の世界)である。しかしただ単に物質だけの世界ではない。そこに人間が蠢いている。 その人間の立場から見れば、物質の世界を感覚を通してつまり目、耳、舌、皮膚、神経を使って外界を受け入れるというという働きがあり、外界を受け入れると、 それを基礎にして色々とものを考える。 その色々とものを考える事が。 想があると、今度は実際に自分の考えを実行してみるがあり、何か色々な事を自分で実行すると、それに従って自分の心というものが形成されてくる。それが



          ―西嶋先生の話―

私は若い頃から「仏教」と言う教えを勉強をしておりました。仏教の教えは、西洋のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などと同じ様な宗教だと考えて、わりあい長い期間が経ったわけです。仏教を本当の意味で勉強して見ますと、西洋のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教と考え方が違うと言う事実があります。西洋のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教というのは、人間の働きに関連して「心の働き」「頭の働き」が非常に大切だと言う考え方をするわけです。そういう「心」とか「魂」とかと言うものの象徴として「神」というものを考えて、その「神」と言うものを非常に大切にすると言う事が基礎になるわけです。
  
仏教では、この世の中で尊いのは「心」だけではない「魂」だけではない。「心」とか「魂」とかと言うものは、我々の生きている世界の「物」の世界と別にあるわけではない。本当の教えと言うものは「この世の中は、心と物とが一つに重なった実体としてあるのであるから、それを基準にして人生を考えるべきだ」と言う主張をした。仏教以外の宗教では「心」とか「魂」というものを非常に大切に考えている。そして「物」とか「金」とかを軽く見るわけです。

そういう考え方での仏教の理解の仕方は、非常に少ないわけであります。道元禅師は鎌倉時代の方であります。その道元禅師は仏教思想を徹底的に勉強された結果、心とか魂とかを大切にする考え方と仏教の考え方とは違うという事に気がついた。その事を「正法眼蔵」の本やその他に残された。だから道元禅師のお書きになった「正法眼蔵」を読む事によって、仏教の本当の意味がわかって来ると、こういう事情があります。
 
我々は仏教を考える場合にも、西洋の宗教と同じ様な考え方であろうという考え方を持って勉強をし始めます。だから、仏教の教えと仏教以外の宗教とが本質的に違うと言う事に気がつかない。そのために、本当の意味の宗教を勉強する機会が以外に少なくなってしまう。そういう問題があろうかと思うわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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