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正法眼蔵 弁道話 33

十八問答は続きます。

質問-18、答の続きです。
また釈尊の教えが、この我々の住む広大な世界に広まって以降も、わずか2000年ちょっと経っているに過ぎない。しかも国土は様々であって、必ずしも仁智(慈悲心や智慧に富む)国ばかりではない。また人々も必ずしも智慧の優れた聡明な人ばかりであろうか。しかしながら釈尊の正しい教えは、元来私たち人間の頭では考えも及ばない様な偉大な力を具えていて、時期が到来すると必ずその国土に広まるものであり、人は正しい信仰を持って修行を行うならば、頭がよかろうと、頭が悪かろうと、坐禅をするならば仏道というものはその場でわかる。

我が国において、そこにいる国民は、情けの心が少なく、頭もよくないと考え、そこにいる人間は知識も不十分だし、理解力も不十分だと考え、釈尊の説かれた教えを理解する事が困難だと言うふうに考えてはならない。まして人には、誰でも般若(正しい智慧)の素質が豊かに具わっていると言うのが基本的な仏教の考え方である。我が国でいまだに仏教が栄えないのは、経典の研究はたくさん行われているけれども、坐禅をやって「仏道とは何か」という事を自分自身の体全体で体験する事がないからである。仏道というものを坐禅によって受け取り、それを日常生活に生かして使うことが、まだ不十分だということに過ぎない。

上に述べた18問答のやり取りは、質問、答、質問、答と言う形で、何回も問答を繰り返したために、なかなか複雑になってわかりにくかったと思う。本来、説き尽くす事の出来ない現実というものを「言葉」を使って、何回となく空しい努力を試みた感がないでもない。しかしながら、この日本では坐禅によって釈尊の教えを探求するという点に関しては、まだその基本思想が伝わってきておらず、これを知ろうと志すものは、それを教えてくれる人がなかったならば悲しく思うことであろう。

このような理由から、自分(道元)が多少とも外国に行って見聞きして来たところを集め、仏道について明るかった師匠の方々の本当の中心的な秘訣というものを書き記して、本当の仏道を勉強してみたいという念願を持っている人々に知らせたいと考える。これ以外の寺院生活をしていく上での規則や寺院における様々な取り決めについては、今書き記す時間の余裕がない。また寺院における規則や定めについては、軽率に急いで十分に時間を取らずに書き記すものではない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「直下に第二人なきことをしるべし」ここをもう一度ご説明願います。

先生
直下と言うのは、今日の言葉でいえば、現在の瞬間ということですね。現在の瞬間において第二人がないということは、第二人と言うのは何かというと、我々の意識はよく二つに分かれて自意識と言うものがありがちなんです。それは自分と言うものが二つに分かれて、ものを考える自分と、考えられる自分と、二つに分かれている状態が第二人がある状態と言うわけです。

ところが仏道では、そういう自分自身の意識を持った反省の状態と言うものが本当の人間の状態ではないという主張がある。そういうものを振り捨てて、無我夢中で一所懸命にやっている状態が仏道の主張する人間のあり方。だからそういう点では、反省的に「これでいいのかな」「これじゃいけないのかな」というふうな、頭の中でいろいろとグズグズ考えておる状態と言うものが本当の人間の生き方ではないという主張。そういう点では、もう日常生活においては全く自分が統一された一つになって、滞りなくあらゆる瞬間をこなしていくというのが仏道生活。その状態に入っていくという事が坐禅をやる事のねらいです。

坐禅をやることによって何をねらっておるかというと、グズグズと反省する形の日常生活を振り捨てるということ。もっと行動に投入して、一所懸命、疑いなく、迷いなく、セッセと日常生活をやっていくという事が仏道修行、そういう状態に入った事を、第二人がないという。ところが、我々は大抵が頭の働きに優れておるから、「これでいいのかな」「あれでいいのかな」とグズグズ考える。「人はどう思っているかな」とか「将来どうも見込みがないんじゃないか」とか「あれは失敗だった」とかと言うふうな事で、年がら年中先を考えたり、後を考えたりして、グズグズものを考えて、行動の方がそれに伴っていかないというのが、我々の日常生活のあり方です。

そういうことを礼賛する考え方もあるわけです。今日の文明と言うのは割合それが多い。だから小説家がいろいろと、普通の人間が中々及びもつかないような深いことを考えて、それを文章にすれば、「なるほど、なるほど」とみんな読んで喜ぶわけです。そういうことが唯一の文明かどうかと言うところに仏道の主張があるわけだ。そういう頭が発達していろいろ考えることも大切かもしれないけれども、もっと大事なことは、そういう悩みや惑いを振り捨てて、日常生活に取り組んでいくことだと。日常生活にそういう迷いがなく、惑いもなく取り組んでいく状態が、第二人のない生活だということであります。だから仏道において釈尊の教えを把んだ人というのは、そういう点での惑いや迷いがないということ。「第二人なし」ということは惑いや迷いがないという事と理解してもいいと思う。そういうことです。

質問
坐禅は遊びのすべてをもぎ取った中心と言われますが、坐禅に関して在家、出家と言うのは、どういう事かよく分からないんですけれども・・・。
  
先生
出家しても出家しなくても、そう大きな違いはないと言う事もいえますね。 それはどういう事かと言うと、坐禅の楽しみと言うのは、やっぱり家庭生活に絡まれておったら出来ないわけです。 だから、僧侶になろうと僧侶になるまいと、皆さんが自分の家で坐禅をしようと思ってやれば、家族からはちょっと変な目で見られますよ。 これはどんな家庭でもそうですよ。 「いやぁ、うちのお父さんちょっと頭がおかしくなったんじゃないか」というふうに思われるからですよ。 そうすると、何となく家族に対する気兼ねから、坐禅がしにくいと言う面も出て来ることもありますけどね。

家族の思惑に関係なく坐禅をすれば、もう出家の世界です。 俗世間とは縁が切れてしまう。 家族とも縁が切れてしまう。 坐禅をやっている間はね。 だから、そういう点からすると、出家というものも形の上だけのものではなしに、もっと実質的なものがある。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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