正法眼蔵 弁道話 30
十八問答は続きます。
質問-16、答の続きです。
この事例から「自分自身が真実そのものである」と頭の中だけで理解するということでは、釈尊の教えがわかったということにはならないということがはっきり知れる。もし「自分自身がすなわち真実である」と、頭の中だけで理解することが釈尊の教えであると法眼禅師が理解しておられたとするならば、法眼禅師は前に使っていた「丙丁童子来求火」と言う言葉をそのまま使って、則公監院を指導するという事はなかったであろう。
仏道修行と言うものは、高徳の僧侶にお会いして以降、「どのように修行をしたらよろしいでしょうか」と言う、その修行のやり方を質問して、ひたすら坐禅によって真実を求め、様々の理解と言うものは心にとどめておく必要がない。その様な形で坐禅をして、形を通して仏道と言うものが何かということを実感するということをやっておりさえすれば、そういうやり方によって得られるところのものは、決して無駄にはならない。決して空虚なものではない。かならず実体として我々に仏道と言うものを教えてくれる。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
先生のご専門の四諦論から、今の国際情勢をご説明願えますか。
先生
四諦論、つまり仏教では四つの考え方(苦諦・集諦・滅諦・道諦)で問題を考えていくということをやるわけだ。だからその点の最初の考え方(苦諦)と言うのは、一番望ましい形はどういうことかと言う考え方。そうすると国際的な考え方にしても、各人が平和を愛好して、お互い仲良くやっていくということが、一番最初の望ましい形として当然出てくるわけだ。だから平和を大切にするという事が最初に出てくる。
ところが、現実はそう甘くない。よその国が「平和、平和」と考えてくれれば問題はないわけだけれど、本音と建前の考え方からすれば、国際会議では「平和が望ましい」ということを言っていても、「相手にやられちゃ大変だ」という気持ちがあれば、否応なしに軍備に一所懸命金をつぎ込まなきゃならん。今日どこの国も軍備のために相当の金をつぎ込んでおる。それはどういう事かと言うと、相手の国が信用できないから。つまりアメリカにしてもソ連にしても、他の国が本当に平和を愛好しているかどうかということがわからんわけだ。そうすると平和を保つためには軍備をしっかりしなきゃならんと言う問題がある。だから単に「平和でなきゃならん、平和でなきゃならん」と言って、お題目を唱えているだけでは問題の解決にはならない。
8月が近づいてくると、例の原水爆禁止運動と言う様なのが盛んになるわけだけれども、原水爆を禁止するということで平和が訪れるならば、人間誰も苦労はしない。「原水爆を禁止しよう、禁止しよう」と言ってみても、各国家がそれぞれ自分の利害関係を持っている以上、そういうお題目だけで平和問題が解決するとは到底考えられない。そうすると今度は逆に、軍備と言うものが現実に存在して、お互いにそれで競り合っておるという現実そのものをよく見るということ、これも大事です。国際問題を考えていく上において、アメリカの軍備がどこまで進んでいるか、ソ連の軍備がどこまで進んでいるか、今やればどっちが勝つかと、こういう数量的な計算と言うものは非常に大切な事。そういう現実と言うものを裏面からよく見るということも、平和問題と言うものを考える場合には非常に大切な事。これが第二番目の態度。(集諦)
ただそういう点で、単に平和を希ったり、あるいは客観的な智恵が増えるということだけでは、平和問題は解決がつかない。そうすると、そういう軍備を出来るだけ使わないようにするためには、あるいは戦争が起こらない様にするためのはどうすればいいかということになる。これは単に考えておっても解決がつかない。日常生活を通じて、コツコツと具体的にやっていかざるを得ない。そうすると、今までの例で戦争の大きな原因は何かというと、一つは国内不安。戦争と言うものが起きる場合に、国の中がうまく治まっていて、力が余って外国と戦うと言う様な事はまず少ない。国の中そのものが治まりがつかなくなって、その勢力を外に発揮するということで起きるのが戦争。 つづく--
―1978年7月20日の講義より―
※私の独り言。
私は四諦論を勉強するまでは、第一段階(苦諦)だけの考え方で終わっていました。「正法眼蔵」を勉強していく事で時事問題の捉え方も変わってきました。
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質問-16、答の続きです。
この事例から「自分自身が真実そのものである」と頭の中だけで理解するということでは、釈尊の教えがわかったということにはならないということがはっきり知れる。もし「自分自身がすなわち真実である」と、頭の中だけで理解することが釈尊の教えであると法眼禅師が理解しておられたとするならば、法眼禅師は前に使っていた「丙丁童子来求火」と言う言葉をそのまま使って、則公監院を指導するという事はなかったであろう。
仏道修行と言うものは、高徳の僧侶にお会いして以降、「どのように修行をしたらよろしいでしょうか」と言う、その修行のやり方を質問して、ひたすら坐禅によって真実を求め、様々の理解と言うものは心にとどめておく必要がない。その様な形で坐禅をして、形を通して仏道と言うものが何かということを実感するということをやっておりさえすれば、そういうやり方によって得られるところのものは、決して無駄にはならない。決して空虚なものではない。かならず実体として我々に仏道と言うものを教えてくれる。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
先生のご専門の四諦論から、今の国際情勢をご説明願えますか。
先生
四諦論、つまり仏教では四つの考え方(苦諦・集諦・滅諦・道諦)で問題を考えていくということをやるわけだ。だからその点の最初の考え方(苦諦)と言うのは、一番望ましい形はどういうことかと言う考え方。そうすると国際的な考え方にしても、各人が平和を愛好して、お互い仲良くやっていくということが、一番最初の望ましい形として当然出てくるわけだ。だから平和を大切にするという事が最初に出てくる。
ところが、現実はそう甘くない。よその国が「平和、平和」と考えてくれれば問題はないわけだけれど、本音と建前の考え方からすれば、国際会議では「平和が望ましい」ということを言っていても、「相手にやられちゃ大変だ」という気持ちがあれば、否応なしに軍備に一所懸命金をつぎ込まなきゃならん。今日どこの国も軍備のために相当の金をつぎ込んでおる。それはどういう事かと言うと、相手の国が信用できないから。つまりアメリカにしてもソ連にしても、他の国が本当に平和を愛好しているかどうかということがわからんわけだ。そうすると平和を保つためには軍備をしっかりしなきゃならんと言う問題がある。だから単に「平和でなきゃならん、平和でなきゃならん」と言って、お題目を唱えているだけでは問題の解決にはならない。
8月が近づいてくると、例の原水爆禁止運動と言う様なのが盛んになるわけだけれども、原水爆を禁止するということで平和が訪れるならば、人間誰も苦労はしない。「原水爆を禁止しよう、禁止しよう」と言ってみても、各国家がそれぞれ自分の利害関係を持っている以上、そういうお題目だけで平和問題が解決するとは到底考えられない。そうすると今度は逆に、軍備と言うものが現実に存在して、お互いにそれで競り合っておるという現実そのものをよく見るということ、これも大事です。国際問題を考えていく上において、アメリカの軍備がどこまで進んでいるか、ソ連の軍備がどこまで進んでいるか、今やればどっちが勝つかと、こういう数量的な計算と言うものは非常に大切な事。そういう現実と言うものを裏面からよく見るということも、平和問題と言うものを考える場合には非常に大切な事。これが第二番目の態度。(集諦)
ただそういう点で、単に平和を希ったり、あるいは客観的な智恵が増えるということだけでは、平和問題は解決がつかない。そうすると、そういう軍備を出来るだけ使わないようにするためには、あるいは戦争が起こらない様にするためのはどうすればいいかということになる。これは単に考えておっても解決がつかない。日常生活を通じて、コツコツと具体的にやっていかざるを得ない。そうすると、今までの例で戦争の大きな原因は何かというと、一つは国内不安。戦争と言うものが起きる場合に、国の中がうまく治まっていて、力が余って外国と戦うと言う様な事はまず少ない。国の中そのものが治まりがつかなくなって、その勢力を外に発揮するということで起きるのが戦争。 つづく--
―1978年7月20日の講義より―
※私の独り言。
私は四諦論を勉強するまでは、第一段階(苦諦)だけの考え方で終わっていました。「正法眼蔵」を勉強していく事で時事問題の捉え方も変わってきました。
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