トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 弁道話 29

十八問答は続きます。

質問-16
「釈尊の説かれた宇宙秩序においては、現在の心がそのまま真実であると言う思想を完全に理解した場合には、経典を唱える事もなく、釈尊の教えを実践しなくとも、決して釈尊の説かれた宇宙秩序に欠けるところがない。元来、釈尊の教えそのものが自分自身にあるという事を知ることだ。この様な考え方を自分の身につけるという事が真実を自分のものとする全てであり、これ以外にさらに他人に教えを聞いて勉強する必要はない。まして、坐禅により真実を勉強する様な面倒な事をやる必要があろうか。」と言う人がいますが、この意見は釈尊が説かれた教えに適っているのでしょうかどうでしょうか。


この発言は、甚だ頼りない根拠のない話である。もしこの主張のように「現在の心がそのまま真実である」と言う思想を理解する事だけで足りるならば、誰でもこの教えを理解する自分の心と言うものがあるならば、誰でもこの教えを教わればそれがすぐわかるのであって、そのことがわからないという人があるはずがない。

はっきりと知っておかなければならないことは、釈尊の教えというものは、自分と自分以外のものを分別する見方をやめて学ぶものである。もし「自分自身こそ真実そのものである」と言う理論を知る事が真実を得たということに合致するということであれば、釈尊は人を導くことに何のご苦労もなかったであろう。

この理論を頭の中で理解するだけでは仏道を理解した事にならないと言う関係を、過去における非常によく出来た説話を材料にして話てみよう。昔、監院という役にあつた則公という僧侶が法眼禅師が指導している寺院にいた時に、法眼禅師が質問して言った。
法眼禅師問う。
則公、お前さんは私の寺に来てからどの位の時がたったか。
則公言う。
私はこの寺院に参りましてから、すでに三年たちました。
法眼禅師問う。
お前は全くの後輩だ。それなのにどうして常々私に対して、釈尊の教えとはどういうものかと質問をしないのか。
則公言う。
和尚さんに対して、私は嘘をつくわけにいきません。正直なことを言いますと、かって青峰禅師の寺におりました時に、釈尊の教えに関して安らかで楽しい境地というものを十分に会得いたしました。
法眼禅師問う。
お前さんは、どういう言葉で悟りというものに入ったのか。
則公言う。
自分はかつて青峰禅師に質問いたしました。一所懸命、釈尊の教えを勉強している自分自身とは一体何でありましょうか。青峰禅師が答えて言いました。丙丁童子来求火(お前はすでに真実を得ているのにさらに真実を求めている)と。
法眼禅言う
なるほどいい言葉だ。しかし、おそらくお前はこの言葉の意味はわかっていないであろう。
則公言う。
解っていないなんてとんでもない。丙も丁も火に関係があります。したがって丙丁童子来求火とは自分自身が火でありながら、さらに火を求めるという意味で、自分自身がすでに真実を得ているものでありながら、しかも自分自身を一所懸命見つけ回っているのだとちゃんと理解しております。
法眼禅師言う。
お前さんが解かっておらんと言う事がはっきりした。もし釈尊の教えがそういう理屈だけのつまらんものであるならば、今日まで伝わって来ておらんだろう。

その様に言われた則公は「私がはっきり悟っているのに、こんな事を言われたのではかなわない」と、頭にきて寺院を出て行くつもりで即座に席を立った、しかし途中まで行ったところで考え直した。法眼禅師は天下に鳴り響いた僧侶である。また五百人の僧侶を指導しておる大和尚である。私の欠点を戒めるについても、必ず優れたところがあろうと考え、そこで再び法眼禅師のもとに帰った。

そして「先ほどは生意気言ってすみませんでした、大変失礼いたしました」と礼拝して謝りそして、則公問う「仏道を一所懸命に勉強している自分自身とは、一体何でありましょうか。法眼禅師言う「丙丁童子来求火」。則公監院はこの「丙丁童子来求火」と言う言葉を法眼禅師から言われた時に、釈尊の教えが何かと言う事がわかった。

          問答の続きは次回で・・・・。
 
西嶋先生解説
だから、釈尊の教えと言うのは、同じ「丙丁童子来求火」と言う言葉でも、中身が二つあるということ。単に理屈の上で、AがB,BがCという捉え方をするのと、自分自身が行動の世界に入って、丸裸になって仏道を求めるということの違い。これが釈尊の教えの根本的な問題。

仕事の関係でいうならば、単に仕事の本を読んで知識を得たという事だけでは、仕事そのものとは別。やっぱり自分で足を動かし、体を動かして、仕事そのものに取り組んでこそ、初めてそこに仕事があるわけだ。頭の中で「ああ、仕事と言うのはこういうものか、ああ、簡単なものだ」と感じて、そのままにしてしまえば仕事にならない。自分自身で手を動かし、足を動かして、汗みどろになって働いて、初めて仕事があり得るわけだ。

そういう仕事の世界が現実の世界、我々の人生そのもの。我々の人生そのものと言うのは、理屈の中で、頭の中で考えているというだけが人生ではない。人生と言うのは、常に体を動かして何かをしていなきゃならん。何かをしておるというのが人生。仏道の教えには、こういう場面があるということが釈尊の教えの基本の考え方。

※私の独り言。
この頃、日本国憲法国民の三大義務(1・勤労 2・納税、3・子供に教育を受けさせること) 国民の三大権利(1・生存権 2・教育を受ける権利 3・参政権)について考えることが多い私です。
    

ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-