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正法眼蔵 弁道話 28

十八問答は続きます。

質問-15
この坐禅の修業は、現代の様な末代悪世の時代においても、修行をしたならば悟りを得ることが出来るでありましょうか。

末代悪世について。
仏教には昔から、釈尊が亡くなってから500年間は釈尊の教えが盛んに行われ、その後の1000年間に釈尊の教えが衰えてくる。1500年たつと、その後は釈尊の教えが中々行われなくなるという言い伝えがある。この1500年たった以降を末代と言う。


仏道を理屈で教える師匠は、末法末世というけれども、実際の日常生活を通して仏道を学んでいこうとする大乗の教えにおいては、正法・象法・末法と言う様な時代を分けて、時代がたつと釈尊の教えが中々行われなくなるという考え方はしない。坐禅の修行さえすれば、誰でも釈尊の教えが身につくと主張している。まして釈尊以来、師匠から弟子へとただ一筋に伝えられたところの坐禅という正統な修行法においては、釈尊の教えに入ったり出たりして実際に日常生活を行うというそれぞれの場面においても、各人が自分自身の中にある宝物を受け取ってそれを使いこなすことである。したがって、仏道修行における体験が得られたか否かは、実際にやることによって体験出来るものだ。水を使う人が、冷たい水と温かい水とのけじめが直ぐつくのと同じである。

西嶋先生解説
宗教とか仏教とかということを考えると、一般には偉い教えがあって、その教えを勉強して頭に入れると一切のものがわかってくるというふうな考え方があるけれども、仏道は単なる思想ではないので考えることがその出発点ではない。坐禅をやっている時に身につくところの態度・状態が仏道の基本。だから坐禅さえやっておれば体が変わってくる。坐禅によって仏と同じ体になる、仏と同じ心になる。だからあれこれと努力する必要はない。坐禅さえやっておれば、自然に仏道にかなった日常生活にならざるを得ない。またそういう生活から出ようとしても、坐禅さえやっておれば出ないで済む。これが仏道生活。

坐禅によって得られるさとりと言うものを特別の体験と考える必要はない。坐禅をした時に各人が感じられるもの、それが仏の世界。色々な考えが浮かんで来る事も坐禅の中身の一つ。「何か考えているな」と気がつくまでは、だれでも何か考えておる。「考えているな」という事に気がつかないうちは、考えをやめようという段階には入っていない。そして「考えているな」という事に気がついても「考えをやめた」と思うと、また何か他の事を考えている。「やめた」と思っても、また考えているというふうなことで、行ったり来たりの繰り返し。それも坐禅、それもまた仏の姿。そういう状態が坐禅の中身であって、もちろん非常に静かに落ちついて、ものを考えないと言う状態もある。しかしそういう状態ばかりではない、ものを考えたり、考えるのをやめたりと言う様々の境涯全部が坐禅の中身。

だからそういう点では、坐禅をすれば誰でもが無念無想になる、無念無想にならなきゃならんというふうな事はない。よく「無念無想、無念無想」と言いますが、この無念無想と言う言葉が坐禅を誤解させる。無念無想なんていうのは我々は気絶した時とか、麻酔にかかっている時とか、寝ている時とか以外にはあまり経験しない。我々は意識をはっきりさせながら坐禅をしてるわけだ。だから無念無想と言うふうな事はない。

ところがよく坐禅を勧める人の間では、「無念無想にならなきゃいかん」ということをいう。そうするとみんな一所懸命になって、「無念無想、無念無想」と言う。ところが一所懸命「まだか、まだか」という事で、いろんな方法でやってみるんだけれども、「どうも無念無想になりません」「どうも駄目だからあきらめた」ということが多い。しかし坐禅と言うのはそんなもんじゃない。無念無想なんていう必要がない。ただ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておる時に感じられるもの、それが仏道の究極なのです。

だからそういう点では、あれこれと特別な考え方が出てくるという事ではなくて、坐禅をしておれば誰でもわかること。その状況と言うものは、水を使う人が、冷たい水を使えば冷たいと感じ、温かいお湯を使えば温かいと感ずる、それと全く変わりがない、坐禅をやれば、それに従った体験と言うものは直ぐに得られると言っておられるわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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