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正法眼蔵 弁道話 27

十八問答は続きます。

質問-14、答の続きです。
まして世間の仕事は仏道修行の邪魔になると考えている人は、ただ一般社会には釈尊の説かれた教えが存在しないという事だけを知って、釈尊の教えには、一般社会の教えの介入する余地がないという事実をを知らないのである。最近においては、大宋国に釈尊の教えや達磨大師の教えに通達した、馮と言う名前の重要な大臣がいた。

馮相公は後に詩を作って自分自身のことを述べた。
「公務の余暇には、坐禅を好んでやった。忙しくて横になって寝ることは甚だ稀であった。仕事もやり坐禅もやった結果、大臣の位になって、世間の仕事をしておるけれども、同時に釈尊の教えにおける長老としての名声も国全体に伝わっておる」と。これは政府の要務に余暇のない身ではあったけれども、釈尊の教えをどうしても学びたいという気持ちが深かったために、釈尊の説かれた真実というものを得た例である。この様な昔の例をいろいろ参考にして、現在の自分自身がどうかという事を考えてみるべきである。

当時の大宋国においては、国王、大臣、官史、庶民の男女等一切の人々が、いずれも心を、釈尊の説かれた教え・達磨大師の説かれた教えに留めないと言う事がない。また軍人も事務を行う役人も共に坐禅をして、釈尊の教えを学ぶことを心がけていた。そしてこの様に釈尊の教えを学ぼうと志した人は殆んど例外なしに、自分の心境をはっきりさせる事が多い。この様な例からすると、一般社会の仕事が、釈尊の教えを学ぶ事において邪魔にならないと言う事が自然にわかってくる。

国中に真実の釈尊の教えが行き渡るならば、多くの真実を得られた人々が絶え間なくその国を守るところから、その国の政治というものがきわめて穏やかに行われる。政治が平和に行われれば釈尊の教えも広まる。釈尊が生きておられた時代には、反逆を事とした人や釈尊と違う考え方の人々も、釈尊の教えを聞くことによって正しい教えを身につけることが出来た。

達磨大師の教団においても、狩人・きこり・漁師という普通の職業にたずさわっている人々も釈尊の教えを聞いて悟りをひらいたと伝えられる。それ以外にも様々な人が仏道を学び、それぞれが社会生活を送りながら、ただただ釈尊の教えを身につけた。正しい師匠を見つけてその教えに従って仏道修行をすべきである。

西嶋先生解説        
この様に仏道がその国に広がるかどうかという事と、その国の政治がうまくいくかどうかというこ事とは密接な関係があると言う事が仏教思想。だからそういう点では、国が治まることと、仏教思想が行き渡る事に関係がある。なぜそうかと言うと、普通我々は右寄りの思想、あるいは左寄りの思想になりがちなんです。これは人間がものを考えるとき、たいていはそうなる。ある人は自分の頭の中だけで「これが正しい」というふうに思い込んで「こうでなきゃならん」ということで、一所懸命説く。ところがどっこいそういう考え方の人ばかりではない。「そういう呑気な事を言っていたら、人からいい様に利用される、もっと利害損失だけを考えて、損をしない様に、損をしない様にやるべきだ」と言う考え方が世の中には多い。

この二つの考え方が一つの社会の中で生きているわけだから、「俺の方が正しい」「俺の方が正しい」と言って、どうしても争いが起きるのは当然なことであります。我々の社会と言うのは大体右、左に考え方が分かれて、力づくで争うという場合が多い。そういう場合には国は平和ではない。だから、もうちょっと真ん中に本当の教えがあるんだということが行き渡って、社会の多くの人々が、現実的な、真ん中の考え方と言うものを身に着けてくると、そう喧嘩はしなくなる。たいていの人の考えることがだいたい一致するから、「じゃ、それでいきましょう」ということになるわけです。だからそういう点では、仏道が盛んになるという事と、国が平和になる、国がうまく治まるという事とは密接な関係がある。

最近の学校教育でも、生徒が暴れまわっていても先生が抑えることが出来ないという例が多いらしい。なぜそういう事が多くなるかというと、先生自身がどういう事が正しかという事がわかっていないんだと思う。だから、生徒がおかしな事をやった場合に「そういう事をやっちゃ駄目じゃないか」という事を言えるだけの基礎をもっておれば、悪いと思った時にはすぐ注意する。そうすれば教えられる方も「ああ、そうか」と気がついて方向を変える事があるわけだ。ところが先生の方が、正しいのか正しくないのかわからんからほおっておく。

昭和20年以降、妙に人間の自由とか民主的とかという思想が広まった結果、子供はほっておけばうまく育つものだという考え方があるから、なるべく自由に、自由にと、ほっておこうと言う傾向が強くなると生徒の方は困ってしまう。どこまでやっていいのか、どこまでやっていけないのか、見当がつかない。そうすると、どうしても枠をはみ出してやりたい事をどんどんやる。先生の方じや「なるべくほっとこう」という事で、ほっておくうちにだんだん乱暴がひどくなって、今度は抑えようと思っても抑えが利かなくなる。そういう事情が今日の学校教育というものにあるのではなかろうかという感じがする。

そういう点では、正しさというものが各人の頭にないと、単に学校教育でもうまくいかない。先生自身がどう教えなきゃいかんという基準をはっきり持っていないと、先生も困る、生徒も困ると言うふうなことがあり得る。正しさというものの基準、あるいは正しい考え方というものが世間に広まっているか、広まっていないかという事が社会生活がうまくいくか、いかないのかのかなり大事な決め手となる。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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