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正法眼蔵 弁道話 26

十八問答は続きます。

質問-14
出家した人は、様々な煩わしい環境からきれいさっぱりと離れて、坐禅をやって真実を究めるということに対しての障害がない。しかしながら、俗世間にあって繁務に従事している者は、どのようにして専一に坐禅の修行をし、無為な釈尊の教えに適合することが出来るでしょうか。


一般論として、釈尊は人々に対する哀れみの心から、「坐禅」という広く大きな慈悲の門を開いておかれた。この坐禅の教えを残されたのは、およそ生命のある一切のものを釈尊の教えに入らせようとする意図からである。人間の境涯にある者が、どうして坐禅を通して真実の門に入るという事をしないでよかろうか。この様な理由から、過去、現在における様々の事例をたずねてみると、在家の人でありながら仏道に入り得て、真実を把んだという例が非常に多い。
たとえば中国の皇帝であった代宗皇帝や順宗皇帝は、皇帝の位にあって政務が非常に忙しかった。しかし、その忙しい政治の仕事のあいまあいまに坐禅をして真実を究め、釈尊の説かれた偉大な真実を理解しこれに通達した。また李大臣や防大臣はいずれも皇帝を直接補佐する位にあって国を運営するところの大事な人であったが、坐禅をして真実を究めることによって、釈尊の説かれた偉大な真実を体験しこれに悟入した。

この様な例からみると、釈尊の教えを究めるかどうかという事は、志のあるなし(やる気があるかないか)に帰する。自分が出家をしているか、在家であるかという事は関係ない。俗世間の仕事をしていても、やる気があれば仏道はわかって来る。頭を剃ってお寺に入っていても、やる気がなければ仏道というものは一生わからない。在家出家に関係なく人生における色々な問題について、優劣のけじめが分かる人は、自然に仏道(坐禅)を信じるようになる。

西嶋先生解説
我々は様々な人生経験を持つわけだ。その人生経験の間でいろんな考え方にぶつかる。この世の中にはいろんなたくさんの偉い人々がいて、「俺の話が本当だ」という事でいろんな話をしている。また、たくさんの人がたくさんの本を書いている。だからそういう本を読めばいろんな考え方がある。ただ、我々が様々な経験をしていくうちに、真剣に、どれが本当か、どれが偽物か、という事を見極めるだけの力量が具わってくると、どうしても仏道でなければならんという感じになってくる。

無理に、「信じろ、信じろと」と人に教えられて、やっと仏道に関心を持つという事では、いつまでたっても仏道とは関係ない。ただ、人生を生きて、つらい時もある、悲しい時もある、嬉しい時もある、嬉しいと思って喜んでいると、また、スッテンコロリンで悲しい境涯に行くという事で、さまざまの境涯を苦しみながら生きていくと、本当のものがどういう事で、偽物がどういうものかという事が少しずつ分かってくる。

そういう人生経験の結果、これは本当だ、この教えは本当だ、というふうに自然に考えざるを得なくなってくるものが仏道である。だから仏道の話をする場合に「本物だから、信じなさい、信じなさい」なんて一言も言わない。ただ苦しい人生、嬉しい人生、嬉しいののか悲しいのか、よくわからないような人生の微妙な味わいと言うものに触れてくると、仏道の真実さというものが身にしみてくる。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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