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正法眼蔵 弁道話 25

十八問答は続きます。

質問-11
この坐禅を一所懸命やる人は、釈尊の定められた戒律をきちんと必ず守らなければならないものでしょうか。
戒律
人が仏教の教えに入る場合には受戒と言うものがある。受戒を師匠から受けるという儀式がある。その受戒を受けた人が正式の仏教徒となる。


戒律を守る事は、坐禅を中心とした宗派の規則であり、釈尊の教えである。戒律を受ける儀式をやっていない人でも、戒律を受けたけれどもその戒律が守れなかった人でも、それぞれに坐禅をやっていればそれだけの功徳はある。

質問-12
この坐禅を一所懸命やる人が、さらに真言宗で主張する呪文の修行法や、天台宗で主張する止観の修行法を、坐禅と並行して同時にやるということは、何か支障がありませんか。


自分(道元)が中国にいた時、自分の師匠に本当の中心思想というものを聞いたところが、インドにおいても中国においても、昔も今も釈尊の認可を正しく伝承して来た多くの先輩たちは、いずれも真言宗の修行法とか天台宗の修行法とかを同時にやるという話は聞いていないと返事をされた。実際問題として、自分自身の修行というものを現実に振り返ってみると、一つの事を専一にするのでなければ、欠ける事のない智慧に達することはありえない。

質問-13
この坐禅の修行法は、在家人(俗世間で暮らしている人)の男女も行うべきでしょうか。それともただ出家人(頭を丸めて僧侶になった人)だけが、修行するものなのでしょうか。


仏教界の先輩方が言われるには、釈尊の教えを理解するという点では、男子でなければ駄目だとか、女子でなければ駄目だとか、身分が高くなければ駄目だとか、身分が低くなければ駄目だとかという事は言わない。どういう環境におり、どういう性格の人であろうとも仏道修行は可能であるし、仏道修行をすればそれだけの結果は必ず出てくる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
人間の生き死にをどう対処すべきか。

先生
生死というのは、永遠だとか永遠でないとか考えているような呑気な問題じゃない。現実の一日一日、瞬間瞬間だと。それじゃやみくもに勝手放題にやって用が足りるかというと、勝手放題にやれば自分自身が苦しむ。そうすると苦しまないような形で、しかも毎日がうまくやれるためにはどうするかという事。そうすると何らかの基準に従って生きるしかない。私の話はいつも「坐禅」のところに行っちゃうから、みなさん、耳にタコが出来てどうも面白くない、もうちょっと慰めのある話をしてくれないかという事になろうかと思うけれども・・・・。

質問
そうすると、結局終わりの方は、つまり生き死にをありのままに受け止めて・・・・。

先生
そういう事です。生き死にという問題にも、ありのまま真正面からぶつからざるを得ないだろう。それで一所懸命やるだけだ。それ以外に生き死にの問題を解決する方法なんてありえない。死んだら阿弥陀さんがお迎えに来ますよなんていうのは、当たっているかどうかわからん、はっきり言えばそういう事ですよ。ところが、阿弥陀さんのお迎えに一所懸命というふうな考え方もあり得るからね。

そういう考え方で、「ああ、もう安心した、これで大丈夫だ」と思えば、それはまあそれでいいのかもしれませんけど、しかし人によっては「本当にそうかな」という考え方の人もあり得る。だから、そういうふうな次々いろんな考え方をする人のために納得のいくような考え方という事で、釈尊が出られたと考えていいと思うんですよね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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